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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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師を弔った大手門

小沢幾弥戦死の場面でかかわった西軍の大将は、薩摩藩の隊長・伊藤仙太夫で、幾弥の両手の指先は、ほとんどの爪が剥がれ、残った爪には土が詰まっていたという。
後日、坂下門(久保丁坂入り口)の掘付近の土中浅く殻八太夫の屍が発見されるのだが、幾弥が、師を背負って山を降り、息絶えた八太夫をその場に埋めたのだろうと想像されている。八太夫の発見された場所の土が、血に固まっていたとのことだ。
師を弔った大手門_a0087378_350769.jpg
 師を葬った「坂下門跡(大手門)」の脇には、案内板が立っていて、以下のように説明されている。

 二本松市指定史跡
 一 名称 坂下門跡(大手門)

 旧久保丁入り口に建造された大手門のことであり、俗に坂下門とも称している。
九代藩主・丹羽長富公の治世、天保3(1832)年に幕府に絵図面を添えて願い出し、許可を得て着工された。二本松藩の大手門でもあり、きびしい規制のもとにあった城普請ではあったが、当工事は幕末期二本松藩の傑物家老として天下に知られた丹羽久米介貴明の構想であり、絵図面計画以上の堂々たる大手門が完成したと伝えられている。

 昭和51年7月21日指定
 二本松教育委員会
師を弔った大手門_a0087378_414945.jpg



その坂下門は、小沢幾弥戦死の地の直ぐ東のところにある。戦死の地から坂下門の方向をみる。
by shingen1948 | 2007-06-26 04:11 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)