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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる

 先週の日曜日に、伊達政宗の「会津への路」を辿ったついでに、二本松辺りの芭蕉の足跡も訪ねてみた。
芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる_a0087378_5161778.jpg まずは、黒塚に立ち寄った。黒塚は、平兼盛が詠んだ「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」(拾遺和歌集)の歌枕の地であり、当時、有名な安達ケ原 「鬼婆」伝説の地である。
 「黒塚の岩屋一見し」とわずか8文字の記述だが、芭蕉は、わざわざ奥州街道を逸れ、阿武隈川を越えてまで黒塚に立ち寄っている。芭蕉一行は、鬼婆が住処にしたという岩屋などを眺め、鬼を埋めた黒塚も眺めたものと思われる。
芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる_a0087378_5272130.jpg 芭蕉が、歌枕を辿ることも目的であったのだろうとすると、現在は、そちらのほうは、黒塚に、平兼盛が詠んだ句碑が「黒塚」に建立されているというだけである。当時も、「鬼婆」伝説中心であったろうと想像する。

 曽良の随行日記には、次のように記されているとのこと。


 アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右ノ杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別当坊申ス。(随行日記)

  ここまで確認すると、この奥州街道から、逸れて黒塚に立ち寄る道を確認したくなって、川原に降りる。黒塚側からと、二本松側の両方から、安達ケ原から阿武隈川にかけての散策をした。

 曽良の随行日記の次のような記述を参考にする。
 二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒ(亀谷)ト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。(中略)
芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる_a0087378_5183668.jpgそれヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。(「随行日記」)

  まず、供中ノ渡を確認しようとしたら、供中の古戦場の説明板があって、供中という場所が確認できた。
芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる_a0087378_5231382.jpg  そこは、以前橋が架かっていたところらしい。橋げた跡を確認する。その脇道あたりが、渡しへの路であろうと推定した。






芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる_a0087378_5244869.jpg

この辺りの阿武隈川の水深は3mで結構流れが速い。ここを渡るのは、かなりの恐怖があったのではないかと想像する。
奥の細道の作品には反映されないが、芭蕉は、そんな恐怖の川越までしてここを訪れているのだ。今回の探索の成果は、そのリスクを実感することができたことだった。

芭蕉は、亀井を過ぎたあたりから黒塚に向かって、奥州街道を逸れたのだろうから、次はその追体験の散策をめざしたい。



 安達ケ原 「鬼婆」伝説は有名な物語で、一般的にもよく知られていた。

 ここ安達が原の「鬼婆」は、その名を「岩手」といい、京都の公卿屋敷の乳母であった。永年、手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一新から、「妊婦の生き肝をのませれば治る」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどり着いたのが、この安達ケ原の岩屋だった。
 木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどき、伊駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が宿をこうたが、その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、伊駒之助は産婆を探しに外にでていった。
 老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」をとるのはこの時とばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝をとったが、苦しい息の下から「私たちは幼い時京都で別れた母を探して歩いていたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとった。恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。それは見覚えのあるお守り袋で、恋衣は昔別れた岩手の娘だったことがわかったのだ。岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化してしまった。
 以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたった。
  数年後、紀州熊野の僧・東光坊が岩屋の秘密を知り逃げたが、鬼婆はすさまじい形相で追いかけてくる。東光坊はこれまでと、如意輪観音が入った笈(おい)をおろし祈願すると、観音像が空高く舞い上がって一大光明を放ち、白真弓で鬼婆を射殺したという。
鬼婆を埋めた塚を「黒塚」と呼ばれている。

 その昔、平兼盛が詠んだ「みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」(拾遺和歌集)の句碑が「黒塚」に建立されている。
 正岡子規は、黒塚を訪れ、「涼しさや、聞けば昔は鬼の家」と詠んだ。
by shingen1948 | 2007-05-27 05:48 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)