「筆子その愛」の映画を観て②~創立の意志にこだわってほしかった
2007年 03月 11日
石井氏もそうだが、学校創立物語には、今の我々には、感覚的に納得できないことがある。それは、学校が自由に建てられた時代背景だ。そこには学校創立の熱意がむんむんとしている。窓際のとっとチャンで有名になった自由学園も、あそこでは描かれていないが、リトミックによる学校というのが創立意志であるようだ。今私が興味をもって調べているのが、ローマ字を国語にするとい創立意志を持った学校が福島にあったそうだ。どれも、内容的には奇抜であり、ばらばらだ。しかし、共通するのは、教育として与えた影響力である。それは、創立者の生き方を中心にした感化力による「人間性」の育成だったということだ。
支援体制も、貧しいように思われがちだか、そんなことは無い。今よりも粋のようなのだ。
筆子の場合は、身分の高さから資金援助を受けやすかったようだが、それだけではない。ローマ字学校の場合は、マスメディア関係者の義侠心によって県のトップとつがる。県のトップは、粋に感じて許可を出すという仕組みだ。窓際のトットちゃんの場合は不明だが、経済界も、今のように効率だけに目の色をかえるだけで無く、ダンナ衆の道楽が、文化活動に行ったり、教育活動(人の道の追及)にいったりしていたようなのだ。
教育、福祉、文化は支援を受けやすい環境にあったようなのである。この回りの生き方それ自体も教育として与えた影響は大きかったと思っている。現代は、教育効果を経済効果と同じように、数値的にしかとらえない風潮の中では、無に等しいのだろうが、感化力による人間性の育成という教育効果は大きかったと思っている。
今の時代、確かに制度が確立し、体制が確立し、教育効果があげやすい環境になったと見える。しかし、結果的には、創立の時に働いていた純粋な教育意思が消え去って、邪念として、経済界に便利な人間の育成、政権のアピールの道具、自己アピールの道具としての評論の道具に変質してしまっている。学校のトップも、従事者も、体制が固まるに従って、創立の意志が薄らいでいる。
そういう状況打破の感化力になってほしいという思いからの批判である。意志を通すのに支援がしやすかったことを描くより、意志の純粋さと感化による教育効果美談に終始してほしかったと思ったのだが、どんなものだろうか。
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