少子化でも葬式仏教は成り立つか
2007年 02月 27日
本書は、その具体例として戦死を扱っている。
戦死は遺体が存在しないという今までにない経験対応である。遺体埋葬の伝統地域でも、石塔建立を重視せざるを得なかったという。この場合、家という単位では、戦死者の個性が重視されることになった。それが、多重祭礼として拡大していくときには、個性は消滅し、抽象性の高いものになり、露出性が加わった。そのことで、石塔は、祈念の対象としてだけでなく、記念性がでてくるという。その過程で、祭礼のレベルが複数になり、それぞれのレベルで宗教が違うことも起きてきたという。そういう受け入れをしてきたと紹介されている。
現在ではどんな場合が想像できるのだろうか。
出生率が、2ならば、確率的に、長男と次女、長女と次男の組み合わせで結婚することが多いので問題は起きないだろう。しかし、出生率が2を切ったところで、長男長女の婚姻組み合わせの割合が高くなる。また、それが実家から離れて生活する者も出てくることが多いということが起きる可能性が高い。このことが、現代の墓を守るという観点からは、葬式仏教との整合性が確保しにくくなっているという問題が起きるといえる。
この問題に対処するのには、葬式仏教的な先祖祭礼の経緯の確認が必要になると思う。そのことを本書によって確認する。
要約すれば、葬式仏教が、生活及び身体感覚レベルまで浸透した象徴が「現代の墓」とのことだ。これは、近世幕藩体制政策の一環として、寺檀制度として宗門人別張に家単位で一人一人が記載されことが、始まりとのことだ。それが、民衆に受け入れられたことになって、現代でいう戸籍の機能を持った寺の役割が確立し、発展したものとのことだ。
このことと、原始的な葬送儀礼のあり方を考慮して、新しい葬送のあるべき姿を創造することが必要になってくるだろう。
解決のヒントは、「千の風になって」の「お墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。」という歌詞をかみしめる事ではないだろうかと思う。