庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡
2006年 12月 29日
明治14年に万世大路が開通したため、旧米沢街道の交通量が激減してしまった。宿場町として賑わっていた庭坂に、再び繁栄を取り戻そうという考えから、新しく温泉街を作ろうとしたのだ。そのために、2里も離れた吾妻の山間にある高湯温泉から庭坂に、お湯を引こうという壮大な計画である。 明治17年に三島県令の許可を得ると、工事は直ぐに始まった。延長500mのメーンストリートを8間幅の道路にした。そこから福島への街道も整備し、十数件の旅館や料理屋、5件の遊郭などが建ち並ぶ温泉街を形成した。その突き当たりには、共同館が建てられ、この歓楽街を湯町と改称した。手元に、この湯町の全図のコピーがある。どこから手に入れたかは忘れてしまった。
翌18年5月からは、松の木をくり貫いた木管や土管に湯樋工事も進められ10月25日には完成した。それから2ヵ月後、引湯完工と福島街道開通の祝賀会が湯町のシンボルである共同館で開かれた。
これが見渡せる高台には、県令や部長、警察部長などの公舎である西洋作りの官舎が並んだ。ここを「官宅」といい、高級役人たちは、ここから二頭立ての馬車で県庁へ通ったと伝えられている。
この湯町はかなり賑わったが、明治29年には、県が引湯運営を売却し、官舎も払い下げて手を引いた。それからは、客足が遠のいていった。
明治31年には完全に引湯を停止し、13年間の活動に終止符が打たれた。
この図には、メーンストリートの様子が描かれている。突き当りが共同館である。「天戸座」の写真は、10年前頃たずねていった時の様子である。この時は、前面が朽ちはじめていたが、まだ面影があった。昔は、歌舞伎、大衆演芸や剣劇、レビュー、浪曲などが上演されていた。戦後は、映画が上映されていた。
官舎跡は、今は、園芸関係の方の庭になっているようだったが、面影は十分に感じられた。