玉井氏を滅ぼしたのは田村氏か
2006年 12月 26日
天文十六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
天文十九年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。
この記述が事実を反映しているとすれば、玉井氏が滅んだのは、近隣の有力者の攻防による戦いによる敗北という予想通りということになる。直接的には、田村氏によって滅ぼされたということだろうか。
その田村氏も葦名氏によって、やぶれ和睦する。畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦するということから、芦名氏と二階堂氏の緊密な関係と、畠山白河との信頼関係が伺える。
また、田村氏は、天文の乱以降、伊達稙宗の娘婿であったので、一貫して稙宗方として戦っている。この後の伊達政宗と須賀川城の二階堂氏の敵対関係も予測させる記述である。
以下に、田村氏に関わる記述から、玉井氏のかかわりを想像させる部分を引用しておく。
天文十一年(1542)六月、「天文の乱」が勃発すると、田村隆顕は一貫してまた、この頃から田村氏は頻繁に田村郡以外の地へも軍勢を出していて領国の掌握に成功していることが伺われる。
天文十一年九月、田村隆顕は二本松に出馬した。翌十二年(1543)四月には安積郡に侵攻して伊東氏・芦名氏の軍勢を討って六ヶ城を奪った。
同年十月には安積郡中山(郡山市)に於いて芦名勢と戦い、侍四十一人足軽雑兵八百人を討ち下飯津島(下伊豆島)・前田沢・小荒田(小原田)・荒井・名倉を手に入れた。
天文十四年(1544)二月頃、二階堂氏・石川氏と抗争していた田村隆顕は二階堂照行と講和し今度は北進をみせる。
天文十五年(1545)三月、田村隆顕は石橋尚義とともに信夫郡杉妻(福島市)に出馬した。このため伊達晴宗は白河晴綱に田村の背後をつくように要請している。
同年六月、田村隆顕は叛いた御代田伊豆守と下枝治部大輔を攻め、このため下枝治部大輔は岩城に逃れた。
天文十六年(1546)二月、田村隆顕は畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年十二月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
天文十九年(1550)六月、田村隆顕は安積郡に於いて芦名盛氏と戦い敗れた。このため翌二十年(1551)七月、田村隆顕は畠山尚国・白河晴綱の仲介で芦名盛氏と和睦した。