ボタンを掛け違う心配はないのか。
2006年 12月 10日
政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は8日午後の集中討議で、来年1月の第1次報告に、教員の資質向上を図るため、校長が行う教員評価に保護者、児童・生徒らが参加する外部評価の結果を反映させる制度導入を盛り込む方向で一致した。
指導力不足教員を排除すればいいということで、教育は再生するのだろうか。保護者や地域が、指導不足教員の排除評価を導入するという話から、義務教育の子どもにも教職員を評価させればいいという議論になっているようだ。
こういった議論をする会議に飛び込んだ教育関係者は、真の問題をきちんと伝える役割を担って大変だろうなと想像する。
素人には、いろいろな教育問題について、ボタンの掛違いを推進しているようにしか思えない。
最近の教育の問題経緯の認識の違いだろうか。素人考えで、最近の教育の問題経緯を以下のようにとらえている。
まず、教育の仕組みに、社会の変化に対応できなくなった制度疲労のようなものがあったと思う。結果として、それが不祥事という形で噴出した。
次に、その原因を追求する前に、責任を追及する社会風潮が起こり、劇画風解決を目指す流行が起こった。それを受けて、権力者が方策を実行しようとしている。
最初の学校の制度疲労は、不登校、いじめ問題のようなものだったように思う。これに関しては、まず、スクールカウンセラーを送り込むというカンフル的な方策が投入されていた。そして、その精神に合うように、方策を組むという方法でゆっくりと切り抜けてきていたように感じていた。学校で評価をしない職務に着目し、養護教諭などの心の相談を重視したり、教育相談重要性の認識などによる整備が行われてきたように感じていた。
この時、社会に変化による問題の先鋭化は、それに対応する専門化した対応が必要で、その手段に応じた組織の再編成が必要になることを学んだと思っっていた。
ところが、そうではなかった。社会の変化スピードは速かったが、対応は遅かった。
虐待が社会現象化したときは、教職員にも発見の義務を負わせるという簡便法で切り抜けたようだが、それ以降は、総て簡便方だったようだ。不審者対応は、学校に不審者と戦う道具使用法と技の学習を強いた。
教育の本来の問題では、更に混乱していたように思う。パソコン導入でも、学力向上も、総合的な学習導入も、一つ一つに環境変化に伴う組織の再編成が必要だった。ところが、再編成する前に、一つ一つの方策が間違いとの議論が出て、実施したまま、方針が迷走が続いている。
例えば、学力向上では、偏差値排除の論理のもとにテストや受験の方法の改革が進んだ。そこで出てきたのは、突然の学力低下の話である。それが、本音では一流校の受験対策の問題化であり、その対応策は、塾の受験対策に学校は学べという話になる。
総合的な学習の指導は、地域の学習を支える強力が不可欠だ。それをコーディネートする力を学校に求めた。しかし、環境変化に対応する前に、学力向上の弊害として、縮小すべきだという方向変換の議論になっている。
矢継ぎ早に要求しては、引っ込める。そういった政策が中心となっていた。
また、家庭の複雑化や価値観の多様化が、学校に及ぼす影響は、複雑な様相を呈してきた。子どもの心の問題だけでは済まなくなった。
虐待問題は、単純に早期発見の義務は、学校にもあると規定されて済んだ。しかし、給食未納問題は、それ自体が価値観の多様化の問題だが、もう一つの価値観変化がある。それは、どんなに貧しくても、学校の費用納入を優先するという親の古い価値観の喪失である。学校に、銀行並の取り立てて業務が必要になるのだろうか。
侵入した不審者と真に戦う力が教職員に無いのは明らかだ。それは、誰が見たって明らかだ。警備業務は限界を超えている。虐待の発見に至っては、学校という組織の中に、保健関係が入り込むシステムは必要だが、児童相談所の限界を押し付ける形では解決しそうもない。ここに家庭の価値観に絡む集金の問題を抱え込む。
そういった広範な対応が難しくなった学校は、対応力の限界を超え、子どもの前で保護者に謝る事態が生じ、権威を喪失しているように見える。
保護者や地域が、指導不足教員の排除評価を導入し、義務教育の子どもにも教職員を評価させればいいという議論は本当に教育を再生する議論なのだろうか。