母成峠の戊辰戦争会津兵士戦死者の墓
2006年 09月 27日
この墓は、村人が戦死した会津藩士をそっと葬った所である。戦いの後も新政府軍は会津軍の戦死者を葬ることに許可を出さなかったからた。100年以上経っても、会津に残る新政府軍に対する怨念は、こういった非情さによるものである。
被害者には恨みが残るが、加害者は忘れる。萩藩は観光目当てに気軽に手を結ぼうと提案したが、会津ではふざけるなと怒ったという。そのもとになるできごとの象徴的なところともいえる。
戊辰戦争は、1868(慶応四)年1月の鳥羽・伏見の戦いから1869(明治二)年5月の五稜郭の戦いまでの、新政府軍と旧幕府軍との戦いをいう。
会津藩と新政府軍とは、1868年8月以降激戦を展開し、9月22日には若松城を開き降伏することになる。この会津攻撃の火蓋を切った場所が母成峠である。
二本松を制覇した新政府軍は、慶応4年8月19日に、石筵口よりの会津攻めを決めた。
8月20日には、全軍を率いて、朝八時二本松を出発して、玉ノ井村に到着する。部隊を三隊に分けて、一隊を本宮にとどまり、一隊を山入村へ進める。 ここで、二本松城を奪還しようとする隊と遭遇し交戦になるが、圧倒する。
8月21日には、隊を四つにわけ、伊達路・中央の石筵口・西側の間道・中山口に進軍し、会津藩兵を圧倒する。これが、会津戦の悲劇の始まりである。
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