会津の「わたつみのこえ」を聞く39
2017年 05月 31日
長谷川氏は、「明治学院百年史」によれば、次のような経緯だ。
昭和19年2月熊谷飛行学校館林教育隊で訓練を受ける。ここで6か月過ごした後、同年7月付で満州の第101教育飛行団第32教育飛行隊に移されて、更に訓練を重ねる。
その後、20年2月に特別攻撃隊員の命令を受け、2月10日に少尉任官する。
同日に、新京で編成された陸軍特別攻撃隊武揚隊(誠31飛行隊)の一員となる。この隊が、台湾第8飛行師団配属になる。
一方、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は、彼は、東航から熊谷飛行学校で訓練を受けた後、山梨県玉幡飛行場で更に訓練を受けて、ここから満州に渡ったようだ。
この更に訓練を受けるというのが、軽爆訓練とあるが、九九式襲撃機操縦だろうと想像しているようだ。
そして、昭和19年年8月に、満州に渡った。軽爆が多く残っていたのが平台飛行場だとある。
次に別れだが、「Web東京荏原都市物語資料館」によると、長谷部氏は武揚隊でただ一人知覧飛行場を飛び立って特攻戦死しているとのことだ。
その経緯は、次のようだ。
武揚隊が新田原に向けて飛び立つとき、各務原で彼の機だけが不調で出発できなくて、やむなくとどまったということだ。
彼の家は高山線、上麻生にあり、彼は一泊の外泊を申し出て故郷に帰った経緯が「白い雲のかなたに 陸軍特別攻撃隊」(島原落穂著 童心社)に掲載されているという。
機の不調から遅れをとってしまった長谷部氏は、そこから知覧に行き、誠隊から振武隊に転属し、4月22日に「第31振武隊」として単機で出撃したとのことだ。