会津の「わたつみのこえ」を聞く37
2017年 05月 28日
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52045908.html
飯沼芳雄伍長は松本出身とのことで、松本では同級生の慰問を受けることになったそうだ。その同級生に書き残したのが、この言葉だとの事だ。
この方は、7月19日に八塊から出撃に向かった4機の中の1機で、この時に戦死なされたそうだが、特攻特攻突撃と評価されていたなそうだ。この時に評価されたのは藤井清美少尉のみとのことだった。
墜落か交戦死ということだったのだろうと想像されるという。
この言葉に接した時に直ぐに思ったのは、会津を故郷とする信氏にはこの戦死観はなかっただろうということだ。
会津での戦死観は全国共通ではない。もっとも、ことを知ったのは故郷を離れてからだが、……。
先に「忠霊塔」で整理したように、会津の戦死観は戊辰戦争とかかわる。
http://kazenoshin.exblog.jp/14086402/
若松では、戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊は西軍墓地に祀られている。
会津で過ごす頃は、当然ながら「若松の東軍」の視点でみている。更には東軍の遺体を埋葬することすらかなわなかったという話を聞く中で、東軍墓地を眺めている。
この御遺体のある戦死者の弔い方についての思いがベースにある。
その上で、若松では、日清戦争からの対外国との戦争の戦没者が祀られるのは小田山の「忠霊塔」だ。
こちらは御遺体が存在せず魂の拠り所ということでもあるだろうか。
会津での戦没者の慰霊の原風景は、この戊辰戦争の「西軍墓地」と「東軍墓地」、そして、この近世戦争の「忠霊塔」ということだ。
この原風景との比較のなかで、「九段の花の下」につながる福島縣護國神社に祀られる魂の第一号が世良氏で、それに続く西軍墓地に祀られた戊辰戦争西軍従軍戦死者の方々の御霊が祀られるということだ。組織的な遺族会がどういう構成になっているかは知らないが、会津に生活していた時点での感覚的でいえば、「忠霊塔」に祀られる対外国の近代戦戦没者も、第一号の世良氏に続く戊辰戦争西軍従軍戦死者の御霊と共に祀られ、そこで会おうという感覚はありえない。
「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらおうと思う」という信氏の思いは、会津で生活した事のある者には素直に受け取れるということだ。
ただ、「分骨してもらおうと思う」という部分には、せつなさも感じるが、……。