会津の「わたつみのこえ」を聞く27
2017年 05月 18日
このコラムでは、まずは福島県猪苗代湖の長谷川信氏の石碑を紹介し、経歴や日記から信氏の思いが紹介される。
次の項で、母校明治学院大学が、その「百年史」でこの信氏の評伝にほぼ一章分を費やして記録するという取り組みが紹介される。
更に、次の結語の項では、この時の参院選では集団的自衛権容認が争点にならず、与党は改憲に触れようとしないことへの疑問という時事的な観点を挟んで、次のように結ぶ。
会津若松の長谷川家の菩提寺西連寺に「兵戈無用(ひょうがむよう)」の碑がある。悲劇を忘れぬため02年に前住職の故秋月亨観さんが建立した。大無量寿経にある恒久平和を祈る言葉だ。信が涙した祈りを忘れてはならない。
会津とのかかわりで気になるのが、このコラムの明治学院の取り組みにかかわって紹介される井深梶之助氏だ。氏は、14歳で会津戦争を経験している方だが、明治学院の創設者ヘボンに次いで総理(現学院長)となった方という。
「明治学院百年史」によれば、信氏の明治学院への進路決定にはかかわってはいないとのことだが、「兵戈無用」の石碑を建てた西連寺住職は気になさっていたのではないかなと想像する。
このコラムでは、その井深氏が怒りを爆発させたことがあるとして、次のようなエピソードを紹介する。
「明治」が終わりを告げた時、乃木希典大将が妻と自決し、天皇に殉じた。
日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定した。
万世一系の天皇を中心に据え、欧米に追いつき追い越すための富国強兵をしゃにむに進める国家レジームを追求した果て、無謀な戦争で滅びた敗戦までの日本。
国家レジームの最初の犠牲者は会津だった。その理不尽さを痛感する梶之助は、天皇制国家のためなら、国民に死をも求めるレジームの不健全さを見抜いたのだろう
井深氏が乃木希典大将夫妻の自刃を知ったのは、大葬からの帰途であったいう。そのことから、明治45年9月13日の日記ということが分かる。この部分を「明治学院百年史」で確かめる。
(日記には、)「実ニ意外千万悲惨ノ極ナレトモ実ニ困ッタ事ナリ。大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ現表ナリ」と記している。井深は、乃木夫妻の殉死に対し反対の態度をとった。(明治45年)9月17日、学生に対し乃木の殉死について行った講話においても「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と説いた。
コラムでは、信の評伝づくりに当たった元学院長の久世了さんの言葉を借りて井深氏が「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」事を記し、信氏が特攻兵として亡くなり「大君の(おおきみのしこのみたて)」と呼ばれることになったことと対比させている。