会津の「わたつみのこえ」を聞く26
2017年 05月 17日
その石碑の礎石に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和19年4月20日の日記から「明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。」が刻まれる。
その日の日記の全文を確認する。
急に梁川が読みたくなった。
彌陀の誓願不可思議にたすけまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心。
単純なるもの、は美しい
素朴なるもの、は美しい
純真なるもの、は美しい
おおらかなるもの、は美しい
編上靴の配給を受くる時、自分の飯をもらふ時、腹が減って飯を前にした時、人間の姿や表情は一変する。
明日から食堂にいって食卓に坐る時、お念佛しようと思ふ。あのいやな目付きを自分もしてゐると思ったらゾーッとする。眼を閉って、お念佛をしようと思う。
先に「学徒出陣された長谷川信氏(西蓮寺門徒)のこえ」として昭和20年1月18日の日記から抜粋した言葉も刻まれることを記したところだが、【朝日新聞】コラム「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)が、戦争を憎悪し、軍隊を嫌悪した言葉として紹介するのは、そのまた後半の次の部分だ。
今次の戦争には最早正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。恐ろしき哉、浅ましき哉人類よ、猿の親類よ。
その日の日記全文を確認する。
歩兵将校で長らく中シナの作戦に転戦したかたの話を聞く。女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。「悲劇の石碑涙の祈りを忘れない(駒野毅)」(2016/7/7)にこんな記載も残ると紹介される次の文については、まだ確認ができていない。
俺は航空隊に転科したことに、ひとつのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかも知れないが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることをしみじみと思う。人間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対しあう民族は各々その滅亡まで戦をやめることはないであろう。
怖ろしきかな、あさましきかな、人類よ、猿の親戚よ。
「過去において身につけた筈のインテレクト(知性)は一体どこに影をひそめてしまったのであろうか。そこにあるものは喧騒と食べ物の話のみ」