会津の「わたつみのこえ」を聞く22
2017年 05月 13日
まずは、御両親。
「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」によると、長谷川信氏の戦死の公報が届き、年老いた両親は日記に書き残してあった「猪苗代湖畔に石碑を」を何としても実現しなくてはと思」ったとある。
「明治学院百年史」では、その前に、信氏の戦死の公報が届いて、その思いに至るようになるまでの心情についても紹介する。
母シゲはそれまでに人に見せたことのない程ひどく取り乱した、という。すでに70歳に近い老人になっていた父敬治は、信が送って来た日記に読みふけった。この両親の、信に対する愛惜の念は日とともにつのる一方だった。
「猪苗代湖畔に石碑を」の遺言ともとれる記述は、5月16日の日記のようだ。
「死んだら小石ヶ浜の丘の上に、あるいは名倉山の中腹に、または戸ノ口あたりに、中学生のころボートを漕いだ湖の見えるところに、石碑をたてて分骨してもらはうと思う。」(S)
「明治学院百年史」では、「死との対決」として、その心情にかかわる前後の日記も紹介する。
5月23日
「母より送って来た梁川集とハルナックの「キリスト教の本質」(ともに岩波文庫)は〇〇〇〇により取り上げ。こんな所で何が深刻なる反省であり、何が修養であるか。」(K)
5月24日
「あと、死ぬまでに俺の心はどこまで荒らんでいくことか。日本民族は果たして。」(K)
5月25日
「猪苗代湖、戸ノ口の静かな夕方。薄く霞のかかった鏡面のような湖、あの静かな喜びを、Fと分かちあひたかった。」(S)
長谷川信氏の遺言を実現したいと願うご両親の念願は、昭和21年5月に実現する。
「明治学院百年史」には、「何もかも乏しい戦後の時代であったが、この両親の切ない心を理解する人々の協力もあって、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に、日記の一節を刻み込んだ立派な石碑ができあがった。」と紹介される。
碑文に刻まれるのは、館林での最後の日に日記に書いた一節。
「俺は結局、いい加減に凡々と生きて、凡々と死ぬことだらう。だが、俺にもたった一つできる。涙を流して祈ることだ。それが国泰かれか、親安かれか、知らない。祈ることなのだ。」