会津の「わたつみのこえ」を聞く⑲
2017年 05月 10日
その紹介文の前後の脈絡から、長谷川信氏が、昭和14年春に会津中学休学から復帰し、喜多方中学編入にしようと悩んでいた時期に、浅野恒氏にその悩みを打ち明ける葉書を送ったのだが、その当時、浅野恒氏は予科士官学校に通っていたということのようだ。
明治学院百年史を確認すると、その葉書が3月29日付のようだ。
会津中学時代の友人だとすれば、そこから予科士官学校に進学し、職業軍人になられた方ということだろうか。
「明治学院百年史」によれば、この日記を読んで受けた大きな衝撃が一つの契機となって、神への献身を決意し、軍隊で知り合った羽生慎牧師(明治学院昭和5年卒)の縁をたよって、日本聖書神学校に学び、牧師になられることになったということだ。
その日本聖書神学校の神学生であった昭和23年に、戦没学徒兵の遺稿の募集を知り、信の日記を写しとって応募したとのことだ。
「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、昭和23年に戦没学徒兵の遺稿を募集することになった経緯を、次のように解説する。
まず、昭和22年に、東大出身戦没学生の手記集「はるかなる山河」が出版され大きな反響を呼んだということがあるようだ。
その後、法政大学の小田切秀雄たちが、東大に限らず全国の声を集めようという運動を起こし、これが昭和24年10月出版の戦没学生の手記第一集「きけ わだつみのこえ【岩波書店】」に結実するのだとか。
この作品募集に、浅野恒氏が信氏の日記を写しとって応募したということのようだ。
この項では、最後に昭和34年「週刊現代」の特集「戦争に失われた学徒兵の青春」にも信のことが大きく取り上げられたと肯定的に紹介されてしめられている。
しかし、今まで眺めた別資料では、このために貸し出された日記が戻されることがなかったというとんでもない負の結果を生んでいることを指摘する紹介も見かけている。