会津の「わたつみのこえ」を聞く⑱
2017年 05月 09日
昭和19年3月には、浅間温泉も食糧難で再疎開することになり天竜川流域の伊那地方、飯田市の手前の村々へ移ったという情報だ。
浅間温泉では10か所に分散していたようだが、伊那では5つの村に分かれたという。伊那では食料だけでなく、風呂でも苦労したという。当然普通のお風呂なので、1週間に1度くらいしか入れなくなったという。
代沢国民学校と「武剋隊」とのかかわりも、東大原国民学校と「武揚隊」とのかかわりも、昭和20年3月頃らしいと思われるのに、この頃には再疎開されているという情報になってしまう。
その証言内容をよく読んでみると、証言者は学校事務関係者になられた経緯のある方のようだ。ならば、年度で期間を捉えていたのではないかと推定すれば、辻褄があいそうだ。
つまり、再疎開は、昭和19年3月ではなくて、昭和19年度の3月末という認識だったのではないかという推測だ。
これなら、昭和20年3月に特攻隊員と交流した疎開児童たちは、その月末には再疎開という事になったということだろうと思うのだ。
さて、「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の返却期間が迫っている。
こちらに紹介される事の確認を先にしたい。
その一つは、「明治学院百年史」も、世田谷の疎開児童との交流にしても、と号第31飛行隊の長谷川信少尉が気にかけられるようになるのは、彼の日記が「きけわだつみのこえ」に掲載されているというのが一つの理由になっているのだが、そこに浅野恒という方がかかわっている事が紹介される。このことについて先に確認しておきたい。
この方は長谷川信氏の親友で、職業軍人になって終戦を迎え、無事帰郷できたとのことだ。故郷に戻って、信氏の学徒出陣特攻死を知って大きな衝撃を受けたという。
その浅野氏が、昭和23年戦没学徒兵の遺稿募集を知り、信氏の日記を写し取って応募して、「きけわだつみのこえ」に収められることになったということのようだ。