会津の「わたつみのこえ」を聞く⑯
2017年 05月 07日
母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いて戻って来たという。
実は、参考にした「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」も「明治学院百年史」も、宿の人の話は、次のようだったとの紹介になっている。
結局会うことは叶わず、泊まった宿の人から「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も、彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という話を聞いたとのことである。まだ確認はしていないが、その情報源は「会高通史」であろうと思われる。
昭和40年に刊行されたこの冊子に、信氏の恩師小林貞治氏が、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」という一文があって、信氏の思い出と湖畔の碑の由来が記されているということだ。
今までの「Web東京荏原都市物語資料館」の情報確認から見えてくるのは、信氏が疎開児童と優しく接していたらしいということだ。
この情報と照らし合わせると、「彼は静かにひとり近所の子供たちを相手に遊んでやっていた」という部分から、母親にはそのことが伝わっていたらしいことが分かる。
遊び相手が近所の子になっているのは、ここに疎開児童がいることを知らない会津の方々の聞き違いと想像する。
この話の引用に抵抗があるのは、「他の飛行隊員が酒と女で楽しんでいる間も」という前ふりの部分だ。
次の記事の疎開児童秋元佳子さんの証言部分と照らし合わせてみる。
「ヤマモトさんという方が隊長でした。下の学年の子が、遊んでくれるものと思って、『勉強なんかしないで遊ぼうよ』と寄って行ったら、『こんな非常時にとんでもないことを言う』といってその子に平手打ちを食わせたことがありましたね。」
武揚隊の山本薫中尉である。子どもたちに情が移るからあまり親しくするなと長谷川少尉には言っていたようだ。
「山本さんは、隊長らしく武骨な人で、ごつごつした身体つきをしていました。長谷川さんには、優しい雰囲気がありましたね。なまりがなかったですね。海老根さんは、ズーズー弁でした」
疎開児童の証言からは他の隊員の前ふりの部分が事実とは思えない。
想像するに、これは会津の地域を意識する表現者が、信氏が疎開児童と優しく接していたという部分と対比した強調の効果を狙ったものではないのかなと想像する。
地域の狭い範囲での情報としては、地域にとって中心となる事柄にだけ目が行くだけなので問題はないが、他の地域の情報と照らし合わせる場合は、それでは済まされない場合もあるのではないのかなと思うのだ。
少なくとも、そうであったのかどうかの確認をとる必要はありそうに思えたということだ。
ただ、母親は実際に宿で話を聞いているのだから、他の隊員の様子も含めてその生き様をきちんと感じとっていたのだろうことは想像に難くない。
以下は、疎開児童秋元佳子さんの次の証言部分だ。
「この写真を見て思い出したことがあるんですよ。ほら、飛行機の操縦士というのは首に白いマフラーを巻いているでしょう。いつでしたか、長谷川さんが部屋に来られたときにそれを巻いているんですよ。その隅っこの方に赤い糸が見えたので見せてもらうと、『長谷川』と刺繍がしてあったんですよ。『母親が縫ってくれたんだ』と恥ずかしそうに言っていましたね……長谷川さんがわたしたちの部屋にこられるときはどてら姿でしたね。それでも一度ですが、飛行服を着たままで来られたときがありましたね。いつもとは違って見違えるようでした。」
このマフラーの隅に赤い糸で「長谷川」と刺繍してもらったのは、最後の帰省の時だったのだろうかなどと勝手に想像する。
不思議なもので、写真を見ていると、だんだんに思い出されくるものがあります。よく遊んでもらいましたよ。桜ヶ丘の川が凍っているところへ行って、スケートをしました。わたしたちはゲタを履いて、長谷川さんは軍靴を掃いておられましたね。ああ、そういえば、そうそう、こんなことがありました……
母親は宿の人の話から、こんな疎開児童の証言に近い雰囲気を正しく感じ取っていたのではないのかなと想像する。