地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の「わたつみのこえ」を聞く⑭

 地域資料では、参考の資料を眺める時に、確認したい事を視点に眺めるものだから、紹介された時にはあたかもそれが中心的に描かれていたというふうな表記になりがちだ。
 多分、自分の表記もそうなのだろうが、なかなか他人の視点を持ち込めないので気づきにくい。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記で、疎開児童とのふれあいについて紹介する部分で気になったのが、以下の学童の疎開先の紹介部分だ。
 学童は東京世田谷の代沢国民学校5.6年の生徒、疎開先は信州松本の浅間温泉旅館「富貴の湯」。この浅間温泉富貴の湯に特攻隊「武剋隊」と「武揚隊」が宿泊していた。

 確かに信氏の所属する「武揚隊」の宿泊先は、「明治学院百年史」に浅間温泉「富貴湯」旅館と表記されている事と一致する。しかし、もう一方の「武剋隊」の宿泊先は、「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせると浅間温泉「千代の湯」と読み取れるような気がするのだ。
 しかも、代沢国民学校5.6年の生徒の疎開先は浅間温泉のいろいろな旅館に分宿していたという状況があるのだが、この交流があきらかになるきっかけとなる柳内先生の宿泊先は浅間温泉「千代の湯」だと読み取れるのだ。
 つまりは、「鉛筆部隊と特攻隊」で紹介される子供達と特攻隊員の交流の話の中心は、恐らく「武剋隊」の方が主なのではないかと想像されるのだ。
 両隊とも同じような状況なので、そこで描かれる状況自体は信氏の所属する「武揚隊」にも当てはまるという事なのだとは思うが、「鉛筆部隊と特攻隊」で描かれる中心素材としては、「武剋隊」なのだと思われるという事だ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記には「戦争の平和展『特攻隊が飛び立つとき~松本から知覧へ』【松本市立博物館主催】」も紹介される。
 ここでは、「武揚隊」の遺墨、最後の言葉、証言や遺品などが展示され、長谷川信の遺墨遺品も展示されたことが記される。

 「松本市立博物館ニュース(№187 2013/7/1)」を確かめると、松本に滞在した特攻隊の紹介と松本で学んだ特攻隊員を紹介するとし、更に、学徒動員によって製作された兵器の紹介もあるとする。
 その中の1コーナーに「武揚隊」の展示物もあり、その中には長谷川信氏の遺墨遺品も展示されるということのようだ。
 また、「特攻隊の最後」では、知覧特攻平和会館の協力で沖縄戦が中心となるため、武剋隊の全体像は紹介されるのだが、武揚隊については長谷部良平伍長が知覧飛行場から出撃したことは紹介されるが、他は「4月22日に、山本薫隊長以下6名は5月13日から19日にかけて台湾の八塊飛行場から出撃し、沖縄周辺の洋上で亡くなっています」としか紹介されていない。

 その中から、長谷川信氏とかかわりの強い情報を抜き取って紹介されているということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-05 10:59 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)