地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の「わたつみのこえ」を聞く⑫

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項に「長野県松本に到着、以降約40日をそこで過ごす」事情部分が次のように紹介される。
 松本に来た特攻隊は、満州の新京(現吉林省長春)で編成された隊で武剋隊と武揚隊で、特攻機の爆装改修のためだった。特攻機というのは、戦闘機に250キロの爆弾を吊り下げるための機体の改造を要した。この爆装改造を空襲を避けて山間の松本飛行場で行った。

 長谷川信氏が所属する誠31飛行隊(武揚隊)は、ここで「武揚隊」と紹介される。情報を確認していくと「と号三十一飛行隊」と紹介される場合もある。

 「ラジオ深夜便(2013年7月号)」は目にすることができないでいるので、この紹介部分も「疎開児童の見た特攻隊(きむらけん)」からの引用なのかどうかは分からない。
 「Web東京荏原都市物語資料館」サイトの情報と照らし合わせてみる。

 「大本営が師団に配置した特攻は11隊で、昭和20年2月10日に満州新京で第2航空軍のもとで編成された特攻はそのうちの4隊とのことだ。
 信氏が所属した「と号」第三十一飛行隊が武揚隊、「と号」第三十二飛行隊が武剋隊、「と号」第三十九飛行隊が蒼龍隊、「と号」第四十一飛行隊が扶揺隊で、これ等は中央指令の直轄隊とのことだ。
 配属され際に、扶揺隊は奉天飛行場で特攻機用の爆装に改造したが、他の3隊は岐阜の航空廠で実施しようとしたが、岐阜ではできなかったという。それで陸軍松本飛行場に飛来してきたということだ。
 先に整理した満州国皇帝溥儀にも謁見し、華々しい見送りを受けて飛び立ってきたというのは、この日本への飛来の時ということになるようだ。

 「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の付記の項には、「空襲を避けて山間の松本飛行場で爆装改造」とあるが、こちらの資料によると、昭和20年3月を中心に児童の疎開先の旅館には数多くの航空兵がいたという。というのは、ここが、沖縄決戦に備えて後方支援基地となっていたためだとのことだ。
 ただ、普通は10日前後で出撃してしまうので、滞在が短く児童達の記憶には記憶に残りづらかったという。ところが、武剋隊と武揚隊は、長く当地に滞在したので交流も深くなり児童達の記憶に残ったのだろうという事のようだ。

 武剋隊と武揚隊が、長く当地に滞在することになった理由を探すと、この沖縄決戦の切迫に伴う爆装の増強計画がかかわるように読み取れる。
 爆装増強の為に、その分だけ機体を軽くすることになり、部品を取り去ったり、削ったりする。当然運動特性が変わるので、そのつど操縦士は試運転をするという事を繰り返していたのではないかとの想像のようだ。
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by shingen1948 | 2017-05-04 09:55 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)