熊阪台州氏(その2)55~散策の帰り道②
2018年 06月 15日
江戸時代の後期この地区の南に位置する「高子村」(現保原町)で儒学者・詩人としてこの地に多くの足跡を残した「熊坂三代(覇陵・台州・盤谷)」によって「阿武の松原」が広く知られるようになったと言われる。
それで、熊阪氏の書籍情報を確認すると、「信夫歌」の「信達二郡輿地略図」には、この「阿武の松原」がプロットされていた。
その位置は、瀬上駅と長倉村の間を流れる摺上川が、阿武隈川に流入する辺りの向かい側ということのようだ。
阿武隈川を基準にして「阿武の松原碑」の位置と見比べると、南北関係に違和感はない。ただ、東西関係では碑の位置よりも阿武隈川に近い位置のプロットのようにも見える。
新しく建った案内板を確かめると、「昭和に入り(松原の)東端(碑の立つ地点)に残った1本の老松だけが長くその名残を留めていたが、昭和39年に枯死して全容を失った」とある。
つまり、「阿武の松原碑」が立つ位置は、阿武の松原の東端ということだ。ここから街道沿いに阿武隈川近くまで西に松原が広がっていたということのようなのだ。
ただ、松原は幕末・明治期にはほとんど絶滅していたとのことで、「信夫歌」の時代も衰退に向かう状態だったはずではある。
そして、昭和39年までは、松原東端に1本の老松がその名残を留めていたが、それが枯死して松原は完全消滅したということのようだ。
その切株の跡に「阿武の松原碑」が建ったのは、昭和52年。町道山の下線拡幅改修工事に伴っての建立のようだ。
今のところ、「信夫歌」での「阿武の松原」紹介内容までの確認はできていない。
ただ、台州氏が葛の松原も阿武の松原も知る人が少ないと書いているとの情報はある。
「信夫歌」の構成は、第一部が台州の叙事詩と息子盤谷の註記・第二部が盤谷の考証付録とのことなので、それと照らし合わせて、上記情報は、台州の叙事詩ということなのだろうと思う。