会津の「わたつみのこえ」を聞く⑧
2017年 04月 28日
明治学院の戦時下の歴史を振り返り、個人名を挙げて負の歴史を清算することまでは、その状況についていける。
戦後になって過去を振り返ってみれば、批判された方にとっても時代に流されてしまった行為について反省することも多々あるだろう。それを、明確にしておくべきだという主張は受け入れやすいだろうとも思う。
自分にとって衝撃的だったのは、以下の戦後責任の告白部分のようだ。
しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。
明治学院の理事者、明治学院の「建学の精神」を保持する主体者としての理事会の中の一人である田上穣治氏が、公権力の「英霊」参拝を積極的に推奨してきたのです。それは、戦時下に富田氏らが犯していた誤りと全く同種の罪―死者を神ととしてあがめる「偶像崇拝」という、「聖書」に自己啓示されている私どもの主なる神が最も忌み嫌うその罪―が、明治学院との関係において戦後も引き継がれてきていた証左の一つなのです。
恐らく、批判される方は、戦争責任を告白し清算するその当時の指導者にとって、よく知る諸先輩に当たる方々であるはずで、その指導を直接的に受けていたかもしれない状況下での告白ということでもあると思うのだ。
そこまでの決意を感じるのだ。
そして、自分にとって衝撃的だったこの告白は、戦時下で出征せざるを得なかった長谷川信氏の苦悩と「天皇の国」からの内面的自立の気概を持った生き方との対峙から導き出されているように思われることだ。
とりあえず、「明治学院百年史」の第6章だけでは感じなかったこの決意が背景にあることを理解したとして先に進むことにする。