会津の「わたつみのこえ」を聞く⑦
2017年 04月 26日
「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」という負の歴史の清算と共に、明治学院の中に別の志を貫いた学生がいた事を記憶にとどめるべきだということで、「明治学院百年史」の第6章で長谷川信氏が取り上げられたということのようだ。
その趣旨の一つは、長谷川信氏の文章はいろんな人がいろんなところで引用するように、非常に はっきりした戦争や軍隊に対する批判というものが描かれていること。
そしてもう一つが、その長谷川信という人は、明治学院の校風というものを非常に喜んでいたということだ。
これを、明治学院側から見れば、こういう人を教育していた、あるいは生み出したという側面があるということになるということだ。
その一方で、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという明治学院の非常に痛ましい経験でもあるということでもある。
この学徒兵を取り上げることによって、こういった事をある程度伝えられるのではないかと判断したということのようだ。
負の歴史の清算である「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」の方を確かめる。
こちらは、明治学院学院長中山弘正名で、戦争責任を個人名まで挙げて「悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません」として告白する。かなり厳しい。
そして、「そうした状況下で、侵略戦争に加担させられ、学徒兵として出陣していった多くの当時の学生たちのことを想うと、教師として、学院長として深い悲しみを覚えざるを得ないのです。また、朝鮮・台湾などからの学生たちをも含みつつ多くの若者を戦地に送った当時の教師たちの苦悩の深さに思いを馳せる次第です」と結ぶ。
戦争責任の告白は、ここで終わらない。
敗戦後の指導者たちの戦後責任についても、次のように告白され、謝罪される。ここでも、個人名と具体的な誤りが記される。
少なくとも、「敗戦」という主の審判が下ったところで学院指導者たちのなされるべきだったのではないでしょうか。そして、この謝罪すべきことと対比する形で長谷川信氏が、次のように紹介される。
しかしながら、戦後においても反省と謝罪が公になされなかったばかりか、こうした侵略戦争で亡くなった日本の戦死者を「英霊」(ひいでた霊魂)としてまつろうとする「英霊」思想は明治学院からも消え去りはしませんでした。
とはいえ、敗戦五〇周年の今日、明治学院の戦時下の歴史を振り返って、長谷川信氏のような良心的な学生がいたことに私どもは希望の光を見出します。出征せざるを得なかった長谷川氏の苦悩と、「天皇の国」から内面的自立の気概とは、イエス・キリストのみに土台を据えた明治学院の今後の歩みへの指針を示唆していると思われます。私は、彼のような生き方を貫こうとして悩んだ学生が少なくなかったのだと信じたいです。
二十一世紀を展望し、建学の精神を再確認しつつ、前進しようとする明治学院は、富田・矢野両氏らのとった「広い路」ではなく、当時学生であった長谷川氏の「狭い路」をこそたどらねばならないでありましょう。