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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)30~台州氏代の「熊坂家蛍域」②

 先に「覇陵熊阪君墓碑」について整理したが、このことによって今までの見え方と違ったことがある。
 それまでは、熊阪氏の系譜の中での覇陵氏という見え方だった。覇陵氏の実父方の系譜を意識したことがなかった。
 ところが、「覇陵熊阪君墓碑」で語られる系譜は実父方の系譜を中心にしているらしいのだ。「熊阪台州氏(その2)⑦~「覇陵熊阪君墓碑」⑦」で「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」をもとに確認した釈文の部分だ。

 「白雲館墓碣銘(菅野宏)」に「永慕編」による「高子熊阪氏系譜」が記される。ここから、「伊達の香り」のページなど地域散策のページの情報も参考にしながら、中村熊阪氏から高子熊阪氏が分家する部分と覇陵氏の実父母とがかかわる部分だと思われる部分を抜いてみる。
熊阪台州氏(その2)30~台州氏代の「熊坂家蛍域」②_a0087378_91359100.png 高子熊阪氏の分家を画策するのは、この図の中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏のようだ。
 覇陵氏の実母は、ここで片平エンとした方で、太左衛門(助利)氏の弟に嫁がれた方のようだ。こので、2児をもうけたらしい。この太左衛門(助利)氏の弟が、この図で太次右衛門とした方だが、この方との間に2児をもうけているようだ。
 その太次右衛門氏が亡くなって、中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏のところに身を寄せていたのだが、太左衛門(助利)氏が江戸で知り合った児島定悠氏を婿入りさせて熊坂の姓を名乗らせたということのようだ。

 「覇陵熊阪君墓碑」の覇陵氏実父児島定悠氏の系譜にかかわる部分を再掲しておく。

 「考(亡くなった父=児島定悠氏)は孫右衛門、諱は定悠、姓は兒島氏。故有りて鮒子田氏を冒す(鮒子田の姓を名乗る)。譜(家譜)を按ずるに、蓋し、宇多天皇(887~897)の苗裔(子孫)、兒島三郎備後の守高德より出づ。
 高德、元弘建武の間(1331~1336)に当りて、勤王の勲、史籍(歴史の書籍)に詳かなり、不復た贅(ぜい)せず(余計な事は記さない)高德、高光を生む。高光、正綱を生む。正綱、新田義宗(新田義貞の子)に従いて、豫州(伊予)に徙(うつ)る。正綱正光を生む。正光、光義を生む。光義、定義を生む。定義、定綱を生む。定綱、定宗を生む。定宗、定直を生む。定直、定信を生む。蓋し、光義より定信に至るまで、江州(近江)に在り、六角氏に属す。定信、定德を生む。定德、定次を生む。定次、定政を生む。定德より定政に及ぶまで、世々宮津侯(丹後の国、宮津、今の京都府)京極氏に仕う。寛文丙午(ひのえうま=6年1666)、侯(時の城主、京極高国)、罪有りて国除かる(父高広の訴えにより、徳川家綱にとりつぶされる)。定政、同志の士、五十餘人と、堅く其の城を守り、侯の手書(明渡し状)の至るを待ちて、而して後、諸(これ)を官使(幕府の使い)に致し(渡し)て而して去る。乃ち平安に客たり(その結果士禄から離れて京都に仮寓する身となった)。寛文己酉(つちのととり=9年1669)定悠を生めり。何(いくばく)も亡くして、田宅(でんたく=家屋敷)を一乘寺村(京都東山、高広も東山岡崎に隠棲している)に買いて、而して隱る(隠栖する)。定悠、季子(末子)なるを以て、出でて鮒子田(ふしだ)氏(京都東山上岡崎村の庄屋)を嗣げり。故に鮒子田氏と称す。」
by shingen1948 | 2018-03-22 09:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)