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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)29~台州氏代の「熊坂家蛍域」

 先に「熊坂家蛍域」に建つ「覇陵熊阪君墓碑」について整理した。
熊阪台州氏(その2)29~台州氏代の「熊坂家蛍域」_a0087378_8425966.jpg 「熊坂家蛍域」の現況は、熊阪5代にかかわる墓碑群が建っているようだが、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景にかかわるのは、この三基だと思われる。
 左端が定昭覇陵・養都碣銘で、中央が太右衛門豊重・久保氏越碣銘、そして、右端が太七郎助英碣銘だろうと思う。

 これ等の墓碑群の左側には先に整理した「覇陵熊阪君墓碑」が建っている。そして、この写真の右側に少し写っているのが定邦台州碣銘だ。
 その間に挟まれた墓碑群が、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景ということになるようだ。

 散策資料では、高子の熊阪初代は熊阪覇陵氏であるとか、熊阪覇陵氏は保原の商家の長子とかと紹介されるのだが、この墓碑群ではそれらとは微妙に違う現実に出会う事になるようだ。
 地元では、それらの現実を知った上で散策資料としての紹介にしているということのようなのだ。

 「定昭覇陵・養都碣銘」は覇陵ご夫妻で、その説明は要さないと思う。
 中央の「太右衛門豊重」ご夫妻は、実質的な高子熊阪初代だと思われる。覇陵氏とのかかわりでみれば、養父にあたる方で、覇陵氏はその娘さんと婚姻関係にあるように読み取っている。
 そして、右端の太七郎助英氏が、保原の商家で分家を画策された方の弟に当たる方だと思われる。
 なお、覇陵氏の実父母の墓碑は、保原町長谷寺に建っているようだ。
by shingen1948 | 2018-03-20 08:44 | Comments(0)