会津の「わたつみのこえ」を聞く④
2017年 04月 23日
その中で、読み取り間違いもあったので訂正しておく。
それは、妹が満州医大進学希望と読み取ったのだが、満州医医科大学進学希望は信氏だった。
当時の進学コースの複線型をよく理解していないための読み取り混乱がある。
信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に箇条書きに確認しておく。
大正11年4月12日会津若松市に生まれる
昭和4年小学校入学
昭和10年4月会津中学入学
昭和13年4年生の途中で休学する
昭和14年春復学する
昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
※この頃松江高校受験も。
昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学
地元ならではの情報として整理したその情報源は「会高通史」であることが分かった。
信氏の最後の帰省時、隊に戻る前夜に訪ねた会津中学校の恩師小林貞治氏が、昭和40年に刊行されたこの「会高通史」を執筆した際、「戸ノ口」にまつわる悲話一つ」として、信氏の思い出と湖畔の碑の由来を詳しく記しているという。それが原資料になっているようだ。
「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」の参考文献にも、このローカルな「会高通史」がみえる。
ということで、「明治学院百年史」にも同じ情報はあるのだが、地元ならではの情報だと感じたことまでは否定する必要はないかなとも思う。
なお、恩師小林貞治氏の奥様であり、信氏の小学校の恩師でもある敏子さんの短歌「湖畔の碑」10首のうち3首は先に確認したが、気になったので残りの7首も確認した。
湖(うみ)近き芒の中に君が碑を見出でて佇ちぬ霧深き中
生と死に分かれてここに二十年碑(いしぶみ)に願つ君がおもかげ
「わだつみの声」に載りたる君がことば彫りし碑面に雨横しぶく
君が碑をかこみて高く繁り立つ芒穂群に風渡りゆく
ゴム長とシャベルを持ちて訪ね来し君の碑の文字雪原に冴ゆ
雪原に黒く小さく碑は浮かび湖畔の道を今は離りぬ
駅に君を送ると背負ひし幼児も空に果てにし君が年となる