会津の「わたつみのこえ」を聞く③
2017年 04月 22日
「『きけわだつみのこえ』と長谷川信(栗木好次)」では、その他の理由も挙げている。
その一つが、妹の事情との関りだ。
妹は、満州医大進学希望だったようだ。しかし、諸般の事情で東京の叔父の養女となり、東京の学校に入学したのだとか。諸般の事情という配慮が、地元ならではの情報かもしれない。
もう一つが、幼馴染の少女の動向との関りだ。
小学校から同級だった女性Fさんへの思いについては友人達も周知の事とする。その彼女も東京の学校に進学したとのことだ。
これ等は、地元ならではの情報であり、配慮なのだと思う。
地元ならではの情報に満ちているは、「最後の帰省」の項だ。
2月下旬に長野県松本に到着し、1月あまり浅間温泉富貴湯旅館で過ごすことになる経緯については、「Web東京荏原都市物語資料館」で確認しているが、この待機の期間に、当時の例にならって最後の帰省が許されているとのことだ。20年3月初旬とされる。
信氏は、結婚が決まっていた妹への土産を持って会津若松の実家に帰省するが、隊に戻る前夜に会津中学校の恩師小林貞治氏を訪ねているという。
英語の先生でボート部顧問でもあったが、その奥さんの敏子さんは、信氏の小学校時代の先生でもあったという事で、親しい関係だったようだ。
この時に、信氏から特攻隊員として出撃することを打ち明けられたという。両親には知らせないでくれと頼まれ、上官に取り上げられた「歎異抄」の代わりの本を所望されたとのことだ。
両親は何となくただならぬ雰囲気を感じていたようだ。
父啓治は、この夜は枕を並べて寝たとか、母シゲさんは、信氏が去った後、小林夫妻にしつこく尋ね、口止めされている夫妻を困らせたのだとか。そして、母親は、基地まで後を追ったとのこと。結局、会うことはできずに、宿の方から生活の様子の話を聞いても戻って来たという。
別の項で、この小林先生の奥様敏子さんが信氏を偲んで作った短歌集「湖畔の碑」10首が、短歌研究(昭和43年9月号)に佳作作品として掲載されたことが紹介されることにつながる。
そのうちの2首が紹介されている。
特攻隊にて飛び立つ前の乱れなき
葉書の文字がわれを泣かしむ
死ぬる為に君生まれ来しや戦死せる
幼き面輪に香華はのぼる
別の資料でもう一首の紹介を見たので、付け加えておく。
特攻機にて基地発つ君がよこしたる
最後の文字「シアワセデシタ」