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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏(その2)⑭~台州氏の交遊関係②

 台州氏の交友関係資料確認にかかわって、よそ道に逸れる。
 台州氏の交遊関係を、主として大田南畝氏の資料から確認したところだが、気になったことの一つは、使わせていただいた大田南畝氏の資料が浮世絵にかかわるページにデータベース化されていたことだ。
 まずは、大田南畝氏と浮世絵との関係を確認しておきたかった。

 このことについて分かりやすかったのが、太田記念美術館の「蜀山人大田南畝―大江戸マルチ文化人交遊録」の解説だ。
 http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo
 その4に「浮世絵師と狂歌師のコラボレーション」として、狂歌という文芸が浮世絵界と密接にかかわっていたことが解説される。
 そして、その6で、南畝の浮世絵研究家としての側面が解説されている。

 謎の浮世絵師である東洲斎写楽について語る時には、まず引用されるのが南畝が記した「浮世絵考証」なのだとか。
 狂言師と紹介されることの多い南畝氏だが、江戸の歴史や文化について深い造詣を示し、それを考察した数多くの随筆を記す学者としての側面を備えていて、江戸の一流文化人人とも親しく交流していたとのことだ。

 次に確認しておきたかったのは、奥州の人材で最となすとされる大内熊耳氏だ。
 「白雲館墓碣銘(菅野宏)」で台州氏が江戸に出た際にたくさんの長老大家たちの知遇を得たとされる多くの方の中で、この方だけ先の整理でふれたことがあったのだ。
 それは、「西遊紀行序」の選を依頼された観海氏は、その序の中で、奥州の人材で最となすのは平野金華と大内熊耳だとし、台州の文才をこの二大名家に比肩させているということだった。

 このお二方を確認すると、「平野金華」氏も「大内熊耳」氏も三春出身の方のようだった。
 そのうちの、平野金華氏については、「三春町歴史民俗資料館」のWeb資料館のページに、全国に名をはせた三春出身の学者として紹介されている。
 http://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/web.html

 残念ながら、大内熊耳氏は紹介されていない。
 それで、ウィキペディアでその経歴をみると、三春城下の寺院に住み込んで学問を修め、正徳3年に、その平野金華氏をたよって江戸に出たことが紹介される。
 個性的な方らしく、いろいろあって、京都、長崎と渡るようだが、再び江戸に戻って、徂徠学に立ち返って服部 南郭に兄事し、浅草に塾を開いて成功したとのことだ。

 台州氏が江戸にのぼり、2か月間滞在するのは安政4年乙未(1775)」春だ。
 大内熊耳氏は、この時、今の数え方で78歳のご高齢のようだ。
 氏は、次の年の安永5年(1776)4月28日には江戸唐津藩邸で病没している。
by shingen1948 | 2018-02-10 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)