地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑨

 松川鉱山のシンボルである山神社のお祭りには、花火が打ち上げられ、出店が並んだとのことだが、この時に八丁目の天満宮付近も賑わったのではないかと想像しているが、今のところ確認はできていない。

 その八丁目の天満宮だが、地図には「奥洲八丁目天満宮」と仰々しい名称が記されるのだが、「松川のあゆみ」以外、その沿革を記すものを見ない。
 ここでは、八丁目出身で安永7年(1778)に真浄院で寂した「忍憧律師」がかかわると紹介される。
 この「忍憧律師」が、大宰府の筑紫天満宮に籠り、その飛梅の分木を頂き、当地に送ったのだとか。
 また、天満宮の本地仏として安置されていた「十一面観音」は、安永7年(1778)に師慧海に願い出て与えられたと紹介される。この安永7年(1778)は、先の「忍憧律師」が亡くなられた年であり、師慧海が、師+「慧海」なのか「師慧海」なのかは分からない。

 ここでは、願い出て与えられたという主語にあたる方が紹介されていない。
 「幕末の八丁目家主一欄」を見ると、天満宮の隣に大巌屋を挟んで八丁目村名主渡邉権左衛門明屋敷がみえる。半沢氏の「歴史地図」では、この方が八丁目村検断名主兼帯渡邉権左衛門と紹介されている。
 それで、この方が願い出た代表者なのではないのかなと想像するが、どうだろうか。

 なお、天満宮の本地仏として「十一面観音」が安置されていたことについては、これは当時の一般的な神仏習合の形だと思う。これが、明治維新政府による宗教改革とされる神仏分離の政策を受け容れて西光寺に移されたようだ。はじめは般若堂に移されたとのことだが、後に本堂に安置されたのだという。
 また、「幕末の八丁目家主一欄」には、八丁目村分には、盛光院と多宝院が記されているが、今はない。廃寺になっているようだ。この時の廃仏毀釈政策とかかわるのだろうか。
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by shingen1948 | 2017-04-17 10:41 | 福島の鉱山 | Comments(0)