地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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浅川、松川散策の写真メモから36~浅川と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座②

a0087378_10274623.jpg 「初代市川猿之助の母の墓」があるとされる土手の南側の風景だ。
 民家の左側から登っていくことが可能と紹介されるが、地域の方ならいざ知らず、よそ者が立ち入れるものなのかどうかは知らない。

 この喜熨三太郎秀房一座と初代市川猿之助の母の墓についての話だが、何となく懐疑的に受けとめているところがある。
 ただ、初代市川猿之助を確認すると結構辻褄が合っていて、確認自体も楽しめる。

 歌舞伎など古典芸能にも疎いので、取りあえず基本的な情報を検索してみる。
 「ニッポニカ」に初代市川猿之助<安政2年(1855)~1922>について服部幸雄氏の次の解説があるとの紹介が検索できる。

 「坂東三津五郎の門弟で、殺陣師の名人といわれた坂東三太郎の子。
 初め5世尾上菊五郎に入門したが、後9世市川団十郎の弟子になり山崎猿之助と名のる。明治7年(1874)中島座で、歌舞伎十八番の『勧進帳』を師に無断で上演して破門され、松尾猿之助の名でもっぱら小芝居や各地方の芝居に出演していた。
 明治23年(1890)帰参を許されて市川猿之助と改め、師とともに歌舞伎座に出られるようになった。
 しかし、明治30年(1897)以降は、小芝居の座頭格の立者となって活躍。明治43年(1910)には、2世市川段四郎と改名した」

 この情報を元に、三太郎一座の座長が江戸に出て、殺陣の技をかわれて坂東三津五郎の門弟となり、その殺陣師となったとの想像は可能だ。
 また、「千代田区観光協会」のページでは「初代市川猿之助が珍しい名字の喜熨斗(きのし)で、本名が亀次郎」との紹介もあり、情報が重なるようにも思える。

 ただ、気になるのは次の二点だ。
 その一つは、「千代田区観光協会」のページでは、初代猿之助は「浅草生まれ」とされる事だ。
 もう一つは、名字「喜熨斗(きのし)」は、初代猿之助の父である坂東三太郎が、六代目坂東三津五郎の門人であった縁で、坂東家の屋号の1つ「喜の字屋」と替え、紋の熨斗模様から生まれたという解説も見るということだ。
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by shingen1948 | 2018-01-09 10:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)