浅川、松川散策の写真メモから27
2017年 12月 17日
「浅川、松川散策の写真メモから⑬」では、八丁目文化にかかわって、この方が加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方で、殊に鳥羽画に巧みであったという情報があることにふれた。
屋号塩屋の通称渡辺団七氏とのかかわりで、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」に挿絵も描いているとの情報だ。
その屋号塩屋の通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだった。
今回は、その「奥州一覧道中膝栗毛」第四編の序を確認したので、整理してみる。
すらすらと読めればよいのだが、その素養がない。
次に掲げるのは、紹介された文章と写真版を見比べて、おおよそこんな感じだろうといった程度のもの。
奥州一覧道中膝栗毛四編序
かきつくしてよ壷(つぼ)の石碑(ぶみ)いはねと
志のふ十辺舎、最早一句(もはやいっく)も出(で)まいと思いば
彦枝栄(ひとえさか)ゆく落栗庵、桃栗燕栗(きくぐり)の、
ささにはあらぬ志ば栗(くり)を、こまかに拾(ひろ)ふ
旅(たび)の洒落(しゃれ)、栗橋(はし)こえてみちのく乃、
その栗原(くりはら)の姉葉(あねば)の松(まつ)、栗駒山(くりこまやま)の朴
木枕(ほうのきまくら)、四人連(つれ)たち三つ栗の、中の
ひとりは栗々坊主(くりくりぼうず)、ひっょくりそっくり
がっくりと、栗桃色(くりももいろ)の旅衣(たびごろも)、栗皮染(くりかわそめ)の
頭陀袋(づだぶくろ)、知恵のふくろは焼栗(やきぐり)の、はねた
趣向(しゅこう)は鬼(おに)かげの、栗毛(くりげ)は小栗(おぐり)が乗(のり)志づめ、
栗(くり)から不動(ふどう)のいとくにて、栗(くり)から丸と名(な)にに
呼(よ)ばれ栗柄(くりから)太郎は天拝山(てんぱいさん)、その山猿(やまざる)は
栗(くり)の酒(さけ)、栗(くり)の杓子(しゃくし)で汲(くん)で呑み、まな栗(くり)
ひとつに屁(へ)八十、笑(わら)ひの種(たね)のいけ栗(くり)は、角(つの)の
はえたる毛毬(いが)の栗(くり)、鬼(おに)すむ丹波(たんば)の爺打栗(じうちくり)、
親(おや)はうたれし、栗谷川(くりやがわ)はた栗坂の戦(たたか)ひは
桃栗(ももくり)三年後(ご)三年流矢(さんねんながれや)来(きた)りて序文(じょぶん)の役(やく)、 渋(しぶ)もとれざるかち栗は、籠石前(むろいしまえ)の栗こは飯(めし)、
毫(ふで)を嚙みかみ百舌鳥団七記す。
嘉永二年
むつき
ただ、紹介された文章に従って「百舌鳥団七記す」としている部分だが、写真版では「百舌自廼屋記す」と読めるような気がする。