地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑤

 今回の散策は、松川鉱山最盛期の繁栄のなごりとして残る製錬所のために設置されたと思われる仲の内変電所の確認が主目的だった。
 ただ、頭の片隅には、その途中で、古天神地内の精錬場跡の痕跡も探れないものかという思いもあった。
 「古天神地内の精錬場」というのは、瑞宝鉱業(株)の手に移る前の「製錬所」のことだ。

 「松川のあゆみ」によると、昭和3年に瑞宝鉱業(株)の手に移ってからの松川鉱山が最盛期の繁栄を遂げるとのことだが、松川鉱山は、この前もそれなりに繁栄はしていたとのことだ。それが瑞宝鉱業(株)の手に移ることになるのは、第一次世界大戦後の不況とのかかわりという。

 瑞宝鉱業(株)前の鉱山は橋本組によって経営されていたとのことだ。
 明治初期に、三角氏が嘗て稼働していた松川鉱山の廃坑から金を採取する事業が細々と行われていたという。
 それを、大正初めに本格的に鉱山を再開発したのが橋本組とのことだ。大正3年には約2300tの精鉱が産出されていたという。
 この当時の松川鉱山も活況を呈していて、山神社のお祭りには花火が打ち上げられ、出店が並んで多くの人々で賑わったとのことだった。

 この鉱山では、主として日立製錬場に売鉱していたとのことだが、良質鉱の一部は、まだ金と銀が分離されない青金という状態まで自家製錬して売却していたとのことだった。
 その自家精錬場が古天神地内に設備されていたということだ。
 水力を利用して石臼に良質鉱を入れてスタンプで鉱石を搗(つ)き砕き、水銀アマルガムによる方法を用いていたとのことだった。
 人々は、この工場を搗鉱場と呼んでいたという。
 そして、先に記したように、松川鉱山からこの古天神までは、通路南側に12ポンドのレールを敷き、1t積みの鉱車を馬に曳かせて運搬していたとのことだ。
 ここから松川駅までは荷馬車で運んだという。

 直ぐに分かるのは、古天神から松川駅まで荷馬車で鉱石を運んだという道筋が八丁目宿から松川駅までの道筋だが、その他はなかなか想像しにくい。
 この辺り、現況では整備が進んでいるので、このままで当時を想像するのは難しい。それで、水路に着目して資料を見直してみていたのだ。
 「松川のあゆみ」から「福島の鉱山22~信夫地方の鉱山『松川鉱山』④」で「旧松川町字切図」をお借りしたところだが、この図に主な道筋と川と水路が記されている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/22979661/
 これが、当時の川や水路の様子を表していると思うのだ。それで、現在の地区名をヒントに字界を推定し、当時の水路の様子を想像してみていたのだ。
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by shingen1948 | 2017-04-12 10:19 | 福島の鉱山 | Comments(0)