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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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浅川、松川散策の写真メモから24

 ここまで整理してくると、旧国道四号線と重なる大町通りでは、本陣とされるガソリンスタンド付近の写真が欲しかったことに気づく。
 次の機会に、旅籠「植木屋」の案内が設置された辺りから、ガソリンスタンド向けて撮ってメモしたい。

 旅籠「植木屋」の向かい側で目立つのは現金沢屋酒店だが、そこに旅籠「角田屋」金沢屋の案内が設置されている。更にその隣のお宅前には、旅籠「藤屋」の案内が設置されている。
 八丁目家主一欄を眺めると、「角田屋忠吉」とその隣の「藤屋与惣左衛門」が確認できる。
 この二つの情報は、重なりがあるのだろうと思われる。

 この事によって、気になっている「問屋場」と現在位置とのかかわりがイメージできるようになってくるのだ。
 旅籠「藤屋」の隣に「松野屋仙太」があって、その隣が「問屋場」という位置関係だからだ。

 今まで整理してきたことと重なる情報は、現金沢屋酒店の北側一軒挟んだお宅前の街路灯に「新中田屋」の看板が掲げられている事だ。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑲」で、八丁目小学校創立当初の職員を整理したが、その中の「山田きみ」さんの情報と重なる。

 情報を再掲する。
 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩でのかかわりから採用されたらしいとした。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだった。
 この情報を整理する時点で、本町新中田屋の位置は確認していないとしていたが、この辺りだということが分かったということだ。

 本町「新中田屋」の情報を続ければ、その主人伊藤銀治氏は、元丹羽家の下郡奉行をしていた方とのことで、その恩義を感じてきみさんをとても大切にされていたとのことだ。

 本町「新中田屋」の更に北側のお宅の門柱には「内科・産婦人科 菅野医院」が掲げられる。明治43年に開業され、後に村会議員や助役にもなられたという菅野重誠氏の情報との重なりを想像する。

 これ等の向かい側の並びに、先に「浅川、松川散策の写真メモから⑱」で整理した寺小屋情報と重なるお宅もイメージできそうだ。
 季節によって指導していたという本町「服部半兵衛」宅は、本陣のガソリンスタンドから三軒北側のお宅辺りでなかろうかと想像している。
by shingen1948 | 2017-12-12 10:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)