浅川、松川散策の写真メモから23
2017年 12月 10日
詩人植木鷗渓(植木屋文次郎)松川町本町植木屋茂平の長男。
慶應元年生まれ、早くより田島敬久に師事し漢詩をよくした。漫遊日誌、伊勢参宮、西国三十三ケ所巡礼日記などに多くの詩を残した。いわゆる旦那芸ではなく実作者としての詩心があった。
この写真は、2009年の散策時に撮影したものだ。旧国道四号線と重なる大町通りを福島側から眺めている。
右手に鉄の扉があってその先に蔵が写るが、多分、ここが八丁目家主一欄に名主杉内与三郎とある明治以降も代々松川村外4ケ村戸長でもあったお宅だろうと思う。屋号は穀屋とのこと。
今回はここが名主杉内宅らしいと曖昧ながら言い切っているが、撮影時の散策ではそう言えるほどの自信もなかった。
中町までの整理と違って位置情報としての側面だけではなさそうとのことで、より慎重になっていたこともある。
その先のお宅が、検断問屋植木九郎右衛門家だった所らしい。
半沢氏の歴史地図では「掲示板、高札事務所」とある。ここに高札があったのだろうと思う。名字は植木だが、屋号は大森屋だったらしい。
福島に支店を設けて江戸福島間を往復していたという飛脚問屋島屋の中継地点として八丁目に文久元年大森屋が記録されているとのことだが、この情報とも重なるのだろうと想像する。これが明治4年まで続くそうだ。
検断問屋植木九郎右衛門氏だが、その後の松川村積銭所・鉱業社など、金融関係などの実業関係にその名を記されるようだが、八丁目文化情報にも、その名を見かける。
歌人植木高栄(九郎右衛門)字本町大森屋文吉の長男。
最初西東弘栄の高弟であり、更に東都の大家黒田清綱に師事して歌道に精通しその秀歌は廔「庭たつみ」にあらわれた。口語歌人秀文の父。
その口語歌人秀文氏については、次のように紹介される。
植木秀文(文右衛門)明治39年6月10日生まれで、26歳の若さで亡くなった。
没後学友たちによって短歌遺作集「赭土(あかつち)」が出版され、松川泉短歌会の同人によって歌碑が建てられた。