地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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原町飛行場~長谷川信氏所属武揚隊隊長とのかかわり④

 先の地方紙の報道では、「遺族らの高齢化が進み、民間での慰霊祭は継続できず断念することになった」との報道だった。
 毎日新聞の地方版では、今後の在り方についても報じられていた。
 https://mainichi.jp/articles/20171013/ddl/k07/040/056000c
a0087378_6261524.jpg 市は関係者の要望を受け、市主催戦没者追悼式典の関連行事などとして存続させられないか検討中だとのことだ。ただ、追悼の在り方として、神式の式典の継続には課題があるとのことで、関係者と協議しているとのことだ。

 また、こちらの報道では、今まで慰霊祭を主催してきた顕彰会についても次のように紹介されている。
 顕彰会は元特攻隊員で戦後、この地で暮らした故八牧通泰さんが設立に尽力。2013年に通泰さんが死去してからは、妻の美喜子さんが事務局を取り仕切っていた。美喜子さんも昨年10月の慰霊祭直前に87歳で急逝した。

 この美喜子さんが急逝されたことについて「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力」と報道されたことは、原町飛行場を確認している時に目にしていた。
 これを目にしていたから、今回の報道にも目にとまったということでもある。
 http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/124000c
 「原町特攻の花八牧美紀子さん死去…戦没者慰霊に尽力【毎日新聞(2016/10/13/福島版】」
 太平洋戦争末期、陸軍の原町飛行場(福島県南相馬市原町区)から飛び立つ特攻隊員を見送り、「原町特攻の花」と呼ばれた八牧(やまき)美喜子さん=同区上町3=が5日、87歳で亡くなった。10代のころ、実家の牛乳店を訪れた特攻隊員たちと交流を重ね、戦後は元隊員の夫と戦没者の慰霊に尽くす人生だった。
山形県生まれ。幼くして父を亡くし、南相馬で牛乳店を営む母の実家に移り住んだ。アイスクリームが人気で、飛行場で訓練を重ねる若い隊員が息抜きのため連日集まった。病弱だった美喜子さんは療養の傍ら、母と一緒に当時貴重だった砂糖で大福を作って振る舞ったり、得意の琴を演奏したりして、「みきちゃん」と家族同然に親しまれていた。1996年には、当時書き連ねた自身の日記を基に「いのち 戦時下の一少女の日記」(白帝社刊)を出版。死を覚悟して戦地へ飛び立った特攻隊員から届いた手紙も収録され、美喜子さんに淡い恋心を寄せながら南の海に散った若者への追慕の思いをつづった。
 71年夏には、夫通泰さん(2013年に死去)の奔走で市内に特攻隊員らの慰霊碑を建立。美喜子さんは、毎年10月に開く慰霊祭で世話役を務めながら、平和の尊さを語り続けてきた。
 親族によると、美喜子さんは5日午前、自宅でテレビの国会中継を見ている時に気分が悪くなり、病院で死亡が確認された。急性大動脈解離だった。
 死去の5日後には46回目となる慰霊祭が市内であり、鹿児島県知覧町(現南九州市)で「特攻の母」と呼ばれた故鳥浜トメさんの孫の赤羽(あかばね)潤さん(49)も6年ぶりに参加。「祖母が開いていた食堂で、多くの特攻隊員と交流があった母と全く同じ経験をされた方。お会いできるのを楽しみにしていたのに」と悼んだ。
 戦前から美喜子さんと交流があった南相馬市の森敏子さん(88)は「若い特攻隊員のマドンナ。白いマフラーを巻いた隊員を送り出した、あのつらい光景が私たちの青春時代でした」と語った。
 葬儀は13日午前、同市内で営まれる。【大塚卓也】


 ここで報じられている46回目の慰霊祭というのが、昨年の慰霊祭だ。今年の報道は、その関連性の中で報じられているという事のようだ。
 地元への密着度が高いと感じる。
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by shingen1948 | 2017-10-15 09:24 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)