会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑳:戸ノ口の風景とその変遷⑩
2017年 09月 15日
会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉には、猪苗代湖の湖面低下がかかわるらしい。その湖面低下には、発電用の水を小石浜取水門からの取水することなったことがかかわるとのことだが、それは、より深い処からの水を利用するという利水方法変更によるものだということだ。
その風景の変更の情報を地図から拾って図示すると、こんな感じだろうか。
元々の戸ノ口堰、発電用の水、布藤堰の取水口は、十六橋水門だ。
しかし、現在のそれぞれの取水口は、そこから下流の位置になる。
小石ケ浜水門から取水された水は、隧道を使ってその位置まで一気に落とし込まれるようだ。
そこから取水された戸ノ口堰の水は、更に隧道を使って最短距離で八田野原まで流すということのようだ。
これ等の情報源だが、十六橋水門についての地元情報は、安積疎水にかかわって得られることが多い。日橋川は猪苗代湖から会津に流れる川筋であり、十六橋の西側から取水される戸ノ口堰も、その東側から取水される布藤堰も会津に流れる水路である。しかし、その情報は安積疎水側から発信されるのだ。
それぞれの堰についての地元情報は、布藤堰は現磐梯町から、昔の戸ノ口堰については旧河東村から得やすいが、八田村から先の情報が絡むと、会津若松市の情報確認が必要になるようだ。
布藤堰についての磐梯町の情報では、その開削は宝永3年(1706)で、大谷川の替え水を目的として、十六橋の下流右岸銚子ノ口を取水口と し、布藤を経て大谷川に落水させたものとしている。
戸ノ口堰の前身である八田野堰についての河東町の情報では、その開削は元和9年(1623)八田野村肝煎内蔵之助が、会津藩主蒲生氏郷に願い出たのが始まりとする。
藩公は、奉行志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったが、財政難のため2年で中止になったという。
それで、内蔵之助は、寛永5年(1628)に私費で2万人の人夫を使い蟻塚まで工事を進めたが、資金が続かずに中断したという。
会津藩主が加藤明成に変わったのを機に再び願い出ると、工事再開が認められ、寛永13年(1636)には八田野分水まで開削できたという。
寛永15年(1638) には鍋沼まで到達し、それから3年程で八田野まで支川が造られ、7つの新しい村ができたとのことだ。
ここまでで八田野堰完成と見る見方がある一方で、八田野分水まで開削できた寛永13年(1636)を完成と見る見方もあるようだ。この時に「八田野堰」と名付けられ内蔵之助が八田堰の堰守に任じられからのようだ。
ここから会津若松の城下まで開削するようになるのが元禄6年(1693) のようだ。
北滝沢村の肝煎惣治右衛門が、滝沢付近までいつも水を持ってきたいと願い出たとのことだ。この時に八田野堰から戸ノ口堰に改名されたのだという。
なお、八田野まで支川が造られた後、会津若松までの開削の前に、河沼郡槻橋村の花積弥市が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田開拓をするという広がりもあるようだ。