地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑲:戸ノ口の風景とその変遷⑨

a0087378_9152170.jpg 十六橋水門を日橋側から眺めている。
 現在は、洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだが、この時にはわずかに流失させているように見える。この前の長寿台風の停滞による長雨とのかかわりがあるのかな。
 堤防で囲われた流域が日橋川本流で、その手前一門が旧布藤堰取水門で、日橋川本流の奥の2門が旧戸ノ口堰取水門だったということなのだろうと思う。

 今まで、この十六橋水門については、安積疎水にかかわる情報と共に流れる見え方をもとに整理している。しかし、猪苗代湖という自然湖をダム化したという見え方もあるようだ。そのことによって、猪苗代湖の水は資源化されたということになるようだ。

 その見え方でこの水門を眺めれば、この水門は資源化された猪苗代湖の水を増やす装置で、今まで自然に会津側に流れていた日橋川本流と、布藤堰の利水・戸ノ口堰の利水を郡山側の安積疎水が手中に収めたという見え方になるのだろうか。

 基本的に、資源化された猪苗代湖水を最大限に利用するのには、一つは水をせき止め増水させるという方法によるとのことだ。この十六橋の水門が現役で利水に供していた時点では、こちらの方法だったということだろうか。

 もう一つの方法があって、それはより深い処から取水するという方法なのだとか。
 小石浜取水門からの取水というのは、こちらの方法のようなのだ。
 「会高通史」が、新しい水路が出来る頃から「湖面低下が起こり、湖面旧に復す見通しが暗くなった」とあることとかかわるようなのだ。「街道Web」のTUKAさんから、「新水路」というのは、小石浜取水門のこととのアドバイスを受けて、確認を進めてきたところだ。

 「会高通史」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の終焉にかかわる情報を拾う。
 その一つには、生徒の変質や端艇部の競技スポーツ化があるようだ。
 生徒の変質については、猪苗代の行事に生徒はレクリェーション気分で参加するようになったことを挙げている。そして、端艇部の競技スポーツ化については、主力が荻野ダムの県営漕艇場に移ったことを挙げている。
 しかし、「明治32年以来50有余年幾多の俊秀を育み、会中健児の魂の憩いの場所であった戸ノ口から中田浜に移らざるを得なかったのは、「いかんせん湖面旧に復せず、先の見通しも暗」かったという事のようだ。
 「いかんせん湖面旧に復せず」というのが、先に記した湖面低下らしい。再掲する。
 「昭和18年、十六橋反対側に新水路が出来た頃から湖面低下の為、桟橋まで水が届かず、幾度か桟橋を切り下げたが底の石が露出してきて船を外洋に出せず、少し離れた平屋の小屋から新艇と称するレースボートを皆で持ち上げて出すのがやっとだった」
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by shingen1948 | 2017-09-13 09:19 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)