会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑱:戸ノ口の風景とその変遷⑧
2017年 09月 12日
まずは、明治期に会津盆地へ流出する水量を調節し、郡山盆地に引水して安積野を開拓しようとする国営開拓事業で十六橋に水門が建設された。
当初は十六眼鏡石橋水門で、1門ごとに8枚の板をはめ込む木製扉(角落し式)を、人力で開閉していたが、明治28年(1895)に手動捲上げ式になったということだ。
この辺りが、会津中学校端艇部創設期の頃だろうか。
次に、十六橋と水門が分離される。この風景が、長谷川信氏がここに通っていた頃の原風景だろうか。
明治時代末から大正時代にかけて、日橋川で発電所群の建設が始まり、その発電用水確保が課題になり、明治45年(1912)~大正3年(1914)にかけて、十六眼鏡石橋水門はその電力会社の費用寄付によって、鋼製で電動捲上げ式の「十六橋制水門」に改築されたとのことだ。
水門が電動捲上げ式制水門になったことに伴い、十六橋は水門上流側に分離され橋脚が鉄パイプ製の道路専用橋となって、現在のような景観になったとのとこだ。
更には、景観として変わらないが、実質的な機能は小石ヶ浜水門に移ることになるようだ。
これは、十六橋手前の案内板に掲げられたものだが、この写真が「十六橋制水門」と「小石ヶ浜水門」などの位置関係が分かりやすいと思う。
昭和17年(1942)にできたこの小石ヶ浜水門は、発電所と直結する取水専用水門なそうだ。この時点で、十六橋水門は洪水時を除いてほとんど操作されることなく、普段はここからの自然流出がなくなったとのことだ。
会津高校のホームページでは全国大会出場を機に艇庫をこの地から中田浜に移動することにしたとする。
しかし、実際には、この水門機能の移動によって水深が変化してしまい、この地から撤退せざるを得ない状況になって中田浜に移動したということになったようだ。