会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑰:戸ノ口の風景とその変遷⑦
2017年 09月 11日
例えば「戸ノ口原古戦場」だが、地図上の表記は「笹山原」だ。そして、木村氏が辿り着いた集落も、地元の方は戸ノ口原と呼称しているのだ。
この辺りに広がる平地を、あるときには大野原といい、またある時には笹山原といい、更にまた戸ノ口原ともいうという状態だ。
自分なりに読み取った事を整理しておく。
この平地には旧村の村界があるようだ。
おおよそ旧二本松裏街道の北側が河東村で、南側が湊町ということのようなのだ。
その河東村側ではこの原を大野原といい、湊町ではこの原を笹山原というようなのだ。そして、どちらも、戸ノ口に近いという感じで、戸ノ口原とも呼称するということのようなのだ。
その「戸ノ口」という呼称についても、この地独特の意があるようだ。
若松の入り口である戸ノ口港のある村である向戸ノ口村あたりを戸ノ口というようなのだが、戸ノ口村というのは、現猪苗代町側にある。ここには、かつて郡役所も置かれたとのことだ。
向戸ノ口村というのは、その戸ノ口村が江戸に米を運送する為に赤井村の岸辺に二軒の船宿を営む向戸口船問屋を設置したところのようなのだ。
ただ、若松からみれば、この向戸ノ口村こそが、若松にとっての湖上、陸上の交通上の要所であり、軍事上の要所でもあったということだ。それで、向戸ノ口村付近を「戸ノ口」と呼称しているのではないのかなと思うのだ。
「戸ノ口原」というのは、その「戸ノ口」である「向戸ノ口村」手前の原という意を含んでいるのだろうと想像するが、どうだろうか。
実は、木村健氏はもう一つ勘違いをなさっているような気がするのだ。
見え隠れした水路を「安積疎水」と思っているのではないかなと思えるふしがある。
氏が歩いた付近の発電所用の水路以外に見え隠れした水路は、戸ノ口堰の中でも最も古い時代に開発されているはずなのだ。
ゴルフ場付近の分岐点あたりまでは、最初に開発されて「八田野堰」とも呼称されいていたとされる付近だと思うのだ。
氏が、「ナリ会津ゴルフ場」を過ぎると畑地が見えた農地を「開拓農地だろうと思った」のは、「安積疎水」との勘違いによるものだと思うのだが、どうだろうか。
これは、この水門にかかわる情報が「安積疎水」とのかかわりで見かけることが多いためだろうと思われる。
日橋川も戸ノ口堰も布藤堰も会津方面に流れているのだが、十六橋の水門の管理という名目で、「安積疎水」が日橋川と共に戸ノ口堰や布藤堰の取水まで手中に収めていたこととかかわることなのだろうと思う。