会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑮:戸ノ口の風景とその変遷⑤
2017年 09月 08日
しかし、確認を進めていくと、郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響で湖上運送が衰退したとする前提は、単純化し過ぎているということが分かった。
長いスパンで見たり、会津全体の水上交通という巨視的な見方をしたりすれば、その通りなのだが、猪苗代湖の湖上運送のある時期という部分的な視点の当て方では、別な要素が入ってくるということのようだ。
その一つの要素は、鉄道網の整備に伴う会津全体の物流変化の考慮らしい。
それまの越後経由で会津に入る物流の会津全体の物流に占める割合は、結構大きかったとのことだ。それが、東北本線の開通に伴い東側からの物流が徐々に増えてくるということも起きていたようだ。そんな中で、明治24年に東北本線の東京・青森間が開通したことで、本宮・郡山経由で若松に供給する流れが強化されたという見方があるようだ。
更に、明治31年には郡山―山潟(上戸)間の途中開通があり、若松・新潟方面への貨物が山潟駅に集積されるようになったという。
この集積された貨物を山潟港から汽船・和船に積んで戸ノ口港や笹山港まで運搬するようになるわけで、この間の湖上運送は衰えるどころか、俄然活気を呈するようになっていたということだ。
この時点で、鉄道開通によって猪苗代湖湖上運送に与えていた影響というのは、会津全体の物流変化に伴い栄えていた湖南―会津間の物流が徐々に寂れていき、山潟―会津間の物流が増大していったということになるようなのだ。
明治32年に岩越鉄道は会津若松まで延伸されるが、直ぐに全面的に鉄道に頼ったわけではないという。
例えば、明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことだ。更に、電力会社では二隻の汽船(会津丸・猪苗代丸)を新造し、十数隻の達磨舟を引航して砂利・砂などを湖の周辺各浜から採取して、湖上を発電所建設現場に運んだとのことだ。
鉄道開通後の戸ノ口の港は、物流やそれにかかわる人夫だけでなく、いろいろな用足しの人々も集まって、益々活況を呈していたということになるようなのだ。
その猪苗代第一発電所完成は大正3年のようだ。
明治45年に着工された猪苗代第一発電所や戸ノ口発電所の送電線や戸ノ口発電所の資材などは百駄船で運ばれたとのことなので、当然戸ノ口船問屋がかかわっている。
という事で、明治32年(1899)に会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設される頃は勿論、しばらくの間は、湖上交通の賑わいの名残りなどというものではなく、賑わいそのもので活気にあふれていた時期だったということになるようだ。
戸ノ口船問屋が、地元高校の舟にかかわる部活創設の相談に乗るゆとりは、充分に持ち合わせていただろうと想像できそうだ。