会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑮:戸ノ口の風景とその変遷⑤
2017年 09月 07日
その戸ノ口港と共に会津口である篠山港が、戦後の昭和24年に復活したとされる水上運動会の本部が設置される小石ケ浜付近らしい。
ここを他所者が確認するのには、地元の方々にとっては当然の事である「篠山=笹山」という関係を頭に置く必要がある。同じ処を示すのに、篠山の地名を使うこともあれば、笹山の地名を使うことがあるということだ。
これは、「湊町案内Map」の「小石が浜」付近について案内された部分だが、ここでは「笹山港跡」としてプロットされている。
地元湊公民館だよりの「湊のくに」に「篠山港」として解説されているのはこの港のことだ。
「 篠山は元和3年 1617 年)に埼川村の肝煎渡部伊勢の子掃部之助 (かもんのすけ)なる者が新田を開き、その後元和8年(1622年)に篠山村と村名を立て原組の1村となり、同9年掃部之助が肝煎に任命された。その頃から着船の諸荷物運送のことに従事してい る。
「新編会津風土記」によると家7軒、かまど 8 、男26人、女20人、 馬8匹、この村の営みの多くは住還運送の駄賃をとると述べているが、着船の荷物が多いときは近くの白河街道に沿う赤井村で運送を助けている。
寛文年間から領内の出荷物も取り扱って湖上運送しているが、 延宝8年( 1680 年)掃部之助の子孫に不届きのことがあって肝煎の役を召し上げられ、滝沢組 長原の肝煎に転ぜられた。しかし、荷物運送は1日も休まれないので、一時地首が問屋仮役となって運送に従事していた。
翌延宝9年(元和元年)になって、赤井村の問屋で酒造業を営んでいた田中新左エ門が篠山村の肝煎兼問屋を仰せつかり、その子孫が長くこれを継承した。
篠山にどれくらいの大きさの船が何艘あったのか、問屋の火災で記録はほとんど残っていない」
なお、白河口の問屋半沢授八の秋山港は湖南七浜秋山港の西端に確認できる。ただ、崎川浜の南で赤崎の手前に村共同の問屋の「東田面港」があったとする別資料も見るが、今のところその詳細が記されるものは見つけられないでいる。
仙道(中通り)口の問屋六角久平の関脇港は、二本松街道と二本松裏街道の分岐点の関脇宿に位置する。
その南に問屋土屋十郎・土屋一郎の壺下港がみえるが、こちらは二本松街道と二本松裏街道の分岐点手前の二本松街道壺下宿とかかわる港で、ここには口留番所があったようだ。
ここには、更にその南に中山峠の道筋とのかかわりで後に栄える山潟港の三つの港が並んでいるのが確認できる。
詳しく確認したのは「会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑩」で、ただ一度無断で遠漕に出かけて心配した次のようなエピソードも記したこことの関りだ。
再掲する。
「上戸まで行ってしまって、その帰途につこうとした時に波が高くて戻れなくなったようなのだ。とりあえず小学校へ泊めてもらうことにしたのだが、食事の都合がつかない。
それで、キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かうことに……。」
http://kazenoshin.exblog.jp/237703895/
キャプテンが大目玉覚悟で、自転車で指導者の待つ宿に向かい、頼んでもらったモンタのおにぎりをつけて戻った道筋が、二本松裏街道の街道関脇宿から向戸ノ口の間に近い道筋ということでもある。