会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑭:戸ノ口の風景とその変遷④
2017年 09月 06日
その一つが、「向戸ノ口船問屋」だ。ここは「戸ノ口村が赤井村の岸辺に設けた船宿」なそうだ。「『新編会津風土記」には「赤井村の境内湖浜に家二軒を営み船宿とす、江戸に米を運送する為に設く」とすると解説される。
解説にもあるように、湖中の岸辺には数艘の帆線が帆を降ろして留まっている。
「福島県民百科」で、猪苗代湖の「湖上運送」を確認すると、「江戸時代、一枚帆の六丁櫓の百駄船が浮かび、会津領の篠山、戸ノ口、関脇、秋山、二本松領の浜路、船津が賑わっていた」とある。
「百駄船」は直接確認できなかったが、駄船の駄は負わせるの意と解釈すれば、荷物を運ぶ船であると想像した。また、ここは、すでに日橋川の河川であることを考慮して、とりあえず「平駄船」に近いことを想像した。
平駄船は、内水面を航行する和船の一種で、高瀬舟より大きく五大力船より小さいという。「百」は大きいという意味かもしれないので、「五大力船」も確認してみた。
「江戸時代、主として関東・東北で、比較的近距離の海運に用いた百石ないし三百石の荷船」とある。
この百石の荷船あたりが近そうだなということで、とりあえず、この「五大力船」をイメージする。
会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設情報を重ねる。
会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設は、明治32年(1899)だ。ここは、この時点まで湖上運送の賑わいの名残があったと想像される。
湖上運送が衰退するのは、明治30年(1897)の郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響だが、
岩越鉄道が開通して湖上運送が衰退までには時間差があるはずだ。創設時点では十分に賑わいの名残りはあった筈なのだ。
ここからは大胆な想像だが、恐らく小林先生がお世話になった艇庫向かいの定宿「〇コ」五十嵐宅が、この図の「向戸ノ口船問屋」とかかわるのではないのかなと思うのだ。そして、ボート部の宿泊の世話をしてくれた艇庫の南西に位置する「モンタ婆さん」の「モンタ」が、「家二軒を営み」と解説される船宿だったのではないのかなと思うのだ。
そして、舟を出すのに「向戸ノ口船問屋」の桟橋をお借りしていたと勝手な想像を膨らませるが、どんなものだろうか。