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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑭:戸ノ口の風景とその変遷④

 「会津戸ノ口十六石橋之全図」から、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設とのかかわりが想像できる情報を拾ってみる。
 その一つが、「向戸ノ口船問屋」だ。ここは「戸ノ口村が赤井村の岸辺に設けた船宿」なそうだ。「『新編会津風土記」には「赤井村の境内湖浜に家二軒を営み船宿とす、江戸に米を運送する為に設く」とすると解説される。
 解説にもあるように、湖中の岸辺には数艘の帆線が帆を降ろして留まっている。

 「福島県民百科」で、猪苗代湖の「湖上運送」を確認すると、「江戸時代、一枚帆の六丁櫓の百駄船が浮かび、会津領の篠山、戸ノ口、関脇、秋山、二本松領の浜路、船津が賑わっていた」とある。
 「百駄船」は直接確認できなかったが、駄船の駄は負わせるの意と解釈すれば、荷物を運ぶ船であると想像した。また、ここは、すでに日橋川の河川であることを考慮して、とりあえず「平駄船」に近いことを想像した。
 平駄船は、内水面を航行する和船の一種で、高瀬舟より大きく五大力船より小さいという。「百」は大きいという意味かもしれないので、「五大力船」も確認してみた。
 「江戸時代、主として関東・東北で、比較的近距離の海運に用いた百石ないし三百石の荷船」とある。
 この百石の荷船あたりが近そうだなということで、とりあえず、この「五大力船」をイメージする。

 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設情報を重ねる。
 会津中学校端艇部戸ノ口艇庫の創設は、明治32年(1899)だ。ここは、この時点まで湖上運送の賑わいの名残があったと想像される。

 湖上運送が衰退するのは、明治30年(1897)の郡山―若松間に岩越鉄道の開通の影響だが、
岩越鉄道が開通して湖上運送が衰退までには時間差があるはずだ。創設時点では十分に賑わいの名残りはあった筈なのだ。
 ここからは大胆な想像だが、恐らく小林先生がお世話になった艇庫向かいの定宿「〇コ」五十嵐宅が、この図の「向戸ノ口船問屋」とかかわるのではないのかなと思うのだ。そして、ボート部の宿泊の世話をしてくれた艇庫の南西に位置する「モンタ婆さん」の「モンタ」が、「家二軒を営み」と解説される船宿だったのではないのかなと思うのだ。
 そして、舟を出すのに「向戸ノ口船問屋」の桟橋をお借りしていたと勝手な想像を膨らませるが、どんなものだろうか。
by shingen1948 | 2017-09-06 09:15 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)