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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑬:戸ノ口の風景とその変遷③

 「福島県史料情報第10号」に、「会津戸ノ口十六石橋之全図」が紹介される。
 
 http://www.history.fcp.or.jp/shiryojoho/shiryojoho10.html##10-1
 この橋は、天明8年(1788)二十三の橋脚からなる石橋に改修されたという2代目のようだ。「新編会津風土記」には長さ48間で、凡そ23断の石橋で、左右の勾欄まで皆石づくりと紹介されるようだが、図中では「橋長56間・幅9尺」と記される。

 この橋は、会津戦争の物語では、西軍の会津侵入を防御する要の橋として登場する。
 会津兵が、この橋の破壊に戸惑いと堅固な石橋の破壊の困難さに手間取る間に、敵の西軍が突入してきたとされる。

 湊公民館だよりの「湊のくに」には、次のような西軍薩摩藩の「維新戦役実歴談」の描写を元にしたこの橋の紹介がある。

 十六橋は石橋で、幅三尺(90.9 センチ)で長さ一間半(272.7 センチ)位な石が三枚渡してあるという位な極めて危険な橋だった。それで、戸ノ口の家屋を壊して、その柱を渡して、それを藤でからげて、畳をおいて渡れるようにした。

 この談から、幕末の十六橋の橋脚は石を積んだものだが、狭くて人がすれ違うことはできず、橋板はすべてが石ではなかったと想像されると紹介する。

 勝手かもしれないが、両方の説に矛盾なく、会津ビイキも満足できる勝手な解釈をしたい。
 
 会津軍は手間取りながらも、渡るには手間取りそうな程度までには破壊工作が進んでいたというのは、どうだろうか。
 それで、西軍は戸ノ口集落の家屋を破壊して、それを材料に修復して渡ったとすれば、つじつまが合うと思うのだが、……。

 いづれにしても、そういう橋の状態なら、明治13年にこの橋を取り払って架け替えられたということは、それだけでも地元には歓迎されたことだろうと思うのだが、どうだろうか。

 この「会津戸ノ口十六石橋之全図」に描かれるのは、この橋にかかわる情報だけでない。
 その橋の下を流れる日橋川と両側の堰の様子、この橋を通る街道とその付近の風景、そして、会津中学校端艇部戸ノ口艇庫が創設されたこととかかわりそうな、その先の舟問屋の様子などの情報も含まれる。
 それらも読み取ってみたい。
by shingen1948 | 2017-09-05 17:17 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)