会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑪:戸ノ口の風景とその変遷①
2017年 09月 03日
具体的に照合してみる。
長谷川信氏がこの猪苗代の戸ノ口にかかわる時期は、昭和10年から昭和15年辺りだと思われる。
氏の会津中学入学が昭和10年だ。
昭和13年の途中で休学するが、昭和14年春には復学している。
また、昭和15年春には同志社大学入学するのだが、直ぐに帰郷してしまう。この時にも氏の猪苗代通いは続けていたらしいということだ。
風景の変化だが、現在のように道路と水門が分離され、現在の風景に近い状況になるのは大正3年(191)のようだ。猪苗代水力電気株式会社の水力発電所建設に伴い、水利調整に電動式の引き上げ式ケートに改築されたこととのかかわりらしい。十六橋は、この時に別に架けられることになったということのようだ。
ファン・ドールンの銅像だが、こちらは昭和6年(1931)10月建立とのことだ。猪苗代水力電気株式会社の創設者である工学博士の千石貢氏の提唱により建立されのだという。信氏の戸ノ口通いの頃は、この像も建っていたということになる。
金の橋・銀の橋だが、こちらは昭和34年(1954)完成とのことだ。それまでは、国道は長浜付近から丘陵地や十六橋を経由していたとある。詳細な確認はしていないが、長谷川信氏が戸ノ口にかかわる時期には、長浜からこの辺りにかけて、旧二本松裏街道の道筋が旧国道でもあった可能性があるということかな。