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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑦

 「会高通史」の長谷川信氏にかかわる「戸ノ口にまつわる悲話一つ」で締めくくるその前に、モンタ婆さんが紹介されている。
 信氏が同志社に入学するが直ぐに帰郷してしまって、「ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」時に、このモンタ婆さんに世話になっていろいろな話をしていたようだ。墓碑の土地の物色にも骨を折られた方でもある。
 情報を拾っておく。

 このモンタ婆さんには昭和26年の創立60周年記念式典に感謝状を渡すはずだったが、病気で欠席なされたのだそうだ。それで、感謝状を届けたそうだが、その際に、着物を着がえて、養子夫婦と一緒に並んで受け取ったとのことだ。
 小林先生は、これをその律義さと捉える。このモンタ婆さんは、元気で語気は荒かったそうだが、生徒思いで親切だったようでもあったという。
 そのエピソードとして、生徒が無断で艇庫に電灯をつけたのを東電社員に見つかって脅された時の婆さんの駆け引きと胆力は頼もしい姿を描写する。

 情報として気になるのは、ここに「養子夫婦」とあることだ。旦那さんはいなかったという情報とも重なる。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」だが、明治の頃の「とら婆さん」と同一人物なら、「婆さんはケチケチしていて、娘夫婦はのんびりしていた」ということで、生徒に厳しかったようだが、事が起これば生徒側に立つ愛情深い方だったことが分かる。
 また、「明治の頃」で娘夫婦とされるのが、「昭和のころ」で養子夫婦とされる方と重なるのだろうか。
 なお、モンタ婆さんは、豆腐作りの名人でもあり、その豆腐は堅豆腐でとてもおいしかったそうだ。強清水にも卸していたのだそうだ。
 
 そのモンタ婆さんは、昭和30年8月に「戸ノ口ボートの滅亡に殉ずるがごとく永眠した」とのことだ。

 「会高通史」では、その「戸ノ口ボートの滅亡」については、次のように表現される。
 「戦後昭和24年、小石ケ浜の水上運動会復活とともに、また部員が通うようになりはしたが、船も思うように使えず、生徒も思うように使えず、生徒もレクリェーション気分が濃厚で、伝統の戸ノ口精神は色あせた。全国的なスポーツ熱にうながされて会高端艇部も、戸ノ口に見切りをつけて、昭和26年には荻野ダムの県営漕艇場に乗り出した」

 「戸ノ口に見切りをつけ」るきっかけとなる水深低下と共に気になるのが、色あせたという「伝統の戸ノ口精神」と、荻野ダムの県営漕艇場に乗り出すことを「全国的なスポーツ熱にうながされて」と表現していることだ。

 信氏とのかかわりで見れば、次に「伝統の戸ノ口精神」を読み取っておくべきだろうかと思う。
by shingen1948 | 2017-08-30 09:22 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)