会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく⑤
2017年 08月 25日
「若松市中本六日町小国屋の息子、長谷川信君、生来無口の瞑想型、4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた。
暫く消息を聞かずにいたが戦局いよいよ窮迫した一夜、陸軍少尉の信君が訪ねて来た。満州で特攻隊に編入され不日沖縄地区の敵艦に突入するため別れに来たと」
先に信氏の進学の迷いと実際の進学にかかわる経歴を年代順に整理した事があった。その情報を箇条書きにして重ねるとこんな感じのようだ。
大正11年4月12日会津若松市に生まれる
昭和4年小学校入学
昭和10年4月会津中学入学
昭和13年4年生の途中で休学する
昭和14年春復学する
昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷。
※この頃の友人への便りに、満州医医科大学進学希望が。
昭和16年春喜多方中学の5年生に編入
※この頃松江高校受験も。
昭和17年喜多方中学卒、明治学院入学
この「昭和15年春同志社大学入学するが、直ぐに帰郷する」あたりと、「4年で中退し同志社に学び、人生の懐疑を突き留めて将来セッツルメントに一生を捧げんとせるも、同志社に往年の魅力なく、ひとり戸ノ口に泊まって我が青春と対決して想いを深めていた」というあたりの情報が重なる。
この進路の迷いを重ねてみたことで、本当に「我が青春と対決して想いを深めていた」んだなということがよく分かる。
この情報は、更に、モンタ婆さんがよくいっていたという次の情報とも重なる。
「『信ちゃんが一人で来ては泊まっていくのだけれど、俺は戸ノ口だけが好きだ。いつか死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたいなんていうので可哀そうになってしまう。本当にどういうわけなのだろう』と。戦死となってそれを思い出し、遺骨はないが生前の願いなので家族やモンタ婆さん達と土地を物色したが、湖水のよく見えない平地の畑中に碑を建てることになって残念で気の毒である」
「死んだら湖水の見える所へ埋めてもらいたい」というのは、彼の日記にも記されているとのことだったはずでもある。本当に戸ノ口が好だったんだなと思う。
信氏の好きな戸ノ口の思いがかなり強いようなので、碑が建ったのは湖水が見えないところだとしても、十分に戸ノ口を感じているのではないかなと思うのだが、どうだろうか。