会津へ「わたつみのこえ」を聞きにいく③
2017年 08月 23日
「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。
信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。
「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。
ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。
この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。
ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
また、戸ノ口集落の湖畔に艇庫跡の碑があり、撮影しておいた記憶がありますが、この2つにこのような関連があったとは、全く存じませんでした。
墓碑があの場所に置かれた理由が謎でしたが、お蔭様で納得できました。
私は全く気付いてなくて、最近になってラジオ深夜便の情報から世田谷区の情報を辿っていく中で初めて分かったことでした。
今回、艇庫が戸ノ口から中田浜に移動になるのは、水深変化によるらしいことが分かったので、戸ノ口堰の変遷も確認中です。