地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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山中毅さんの訃報に接して⑫

 年を取るにつれて、競技スポーツに疑問を持つようになるのだが、会津で過ごした時代の後半は、記憶の中での競技スポーツ全盛期だ。

 山中選手の活躍に夢中になった記憶は、山中選手が昭和33~4年の世界新記録を更新し続けた頃から、その期待感で応援した昭和35年(1960)ローマ大会の頃から始まる。
 そして、その山中選手が翌年の昭和36年(1961) に、国体とのかかわりで会津若松にやって来て、自分の日常のフィールドである学校に立ち寄ってくださった。
 そのお会いした興奮で、昭和39年(1964)の東京五輪を迎えるのだが、この時、山中選手はピークを過ぎてていて、400m6位だった。
 ただ、この時には日本選手の活躍は水泳だけでなかったし、会津の片田舎の中でも、その応援対象者は日本選手にとどまらなかった。

 競技スポーツ全盛期にかかわるもう一つの記憶が重なる。
 会津高等学校が、春の選抜甲子園に出場したことだ。
 確認すると、これが昭和34年(1959)で、東北地区野球選手権で優勝し、春の全国高校野球選手権に出場している事が分かる。
 この甲子園出場の出来事は、後にも先にもなくこの時一回きりだ。しかも、この事は、一高等学校の沿革にとどまらない。会津地区全体としても、これ一回きりの出来事だったのだ。
 この時の会津全体の盛り上がりが記憶の中で重なるのだ。
 出場できたのは、黒沢投手と渋谷保守のバッテリーが素晴らしかったからだという記憶があるが、これは大人たちの話を聞いた記憶なのだろうと思う。
 それで、その後の黒沢投手の活躍を期待していたのだが、その後の活躍を耳にすることはなかった。大学に行って直ぐに肩を壊してしまったらしいとの記憶があるが、これも大人達の話の受け売りだろうと思う。
 ただ、これらの事情を知ることのできる立場の大人も少ないはずだ。多分、ご近所の幼馴染みから聞いた話なのだろうと思う。
 というのは、先にこの幼馴染の一部屋にN先生が住んでいたことは記したが、そのお父さんがその当時、会津高等学校の野球部にかかわった方なのだ。この幼馴染のお父さんのかかわりで知った事なのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2017-03-31 08:55 | ☆ その他の話題 | Comments(0)