福島の野仏:松川の野仏②
2017年 08月 15日
散策の中で庚申塔碑だと気づいたのは、下に三猿像が刻まれていたからだ。
この碑で他に庚申塔碑であることがはっきりしているのが、上部に太陽と月が描かれていることだ。雲に乗っていることもあるようだが、この碑では象徴的に記されている。
散策で素人が簡単に庚申塔碑の見分けに使うのが雄雌の二羽の鶏だ。庚申の夜は徹夜をするので、夜明けを告げる鶏ということで描かれるようだが、この碑ではその鶏は見かけない。
梵字だが、いろいろ検索して金剛界大日如来(バーンク、荘厳体)でないかなと思っているが、素人判断でしかない。
※ その後、梵字をいろいろ確認していて、青面金剛(ウン)かなと思い直して修正する。
写真からは「七」が読めるのだが、手持ち資料からは、この碑造立については元禄6年(1693)造立情報と元禄5年(1692)造立情報しかない。また、常円寺の庚申塔(元禄7年造立)と同形式との情報もある「松川の今昔(三浦富治)」
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「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」
参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。
つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。
どうやら見逃していたようです。
で、文中の「飯野新橋」ですが、これは明治34年に完成した二代目「逢隈橋」のことだと考えます。
木製の吊り橋だったのですが、主塔の基部が切り石積みだったとのこと。
(今でも左岸に道跡がありますが、橋の遺構は見つけられませんでした)
この基部工事に布野兄弟が関わったのではないでしょうか。(想像です)
二代目なので「新橋」と呼ばれ、「新橋街道」の由来になったのだと思われます。
残念ながら、柴切田川橋程度の小橋では、そこまでの影響力はないように思います。
「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」は、柴切田川橋ではなさそうだということですね。
「逢隈橋」とのかかわりですか。改めて、立子山から阿武隈川を渡って川俣とつながるという道筋の重要性を感じているところです。
今回の散策を通して、川俣から松川へのトテ馬車情報、松川から水原経由土湯温泉のトテ馬車情報なども含めて考えると、松川が街道筋の臍になってていたということがよくわかりました。