松川鉱山:古天神地内の精錬場跡の痕跡を求めて
2017年 08月 11日
この「自家精錬場跡」が古天神地内にあったという精錬場だ。
こちらの精錬場は、先に散策した松川鉱山の最盛期である宝鉱業(株)経営の精錬場以前の橋本組経営時代の精錬場だ。
「松川のあゆみ」によれば、明治初期に三角氏が嘗て稼働していた松川鉱山では、その廃坑から金を採取する事業が細々と継続されていたという。それを、大正初めに橋本組が本格的に再開発したという。その時代の製錬所だ。
この当時の松川鉱山も結構活況を呈していたとのことだ。
大正3年時点で、約2300tの精鉱が産出されていたとのことだ。山神社のお祭りには花火が打ち上げられ、出店が並んで多くの人々で賑わったとのことだった。
この鉱山では、主として日立製錬場に売鉱していたとのことだが、良質鉱の一部は、まだ金と銀が分離されない青金という状態まで自家製錬して売却していたとのことだった。
今回の散策は、その自家精錬場跡を探る試みだ。
手掛かりとなるのが、古天神地内の水路だ。
というのは、その精練場では水力を利用して石臼に良質鉱を入れてスタンプで鉱石を搗(つ)き砕いて、水銀アマルガムによる方法で精錬していたようなのだ。
少なくともこの自家精錬場跡には、鉱石を搗き砕く水車を回すための水路があったはずなのだ。
これが、その古天神地内に入る水路の現況だ。
「奥州街道:八丁目天満宮情報から⑦」でふれたように、この水路の右側の民家前に墓碑が並んでいる。
http://kazenoshin.exblog.jp/237312646/
そして、この水路が横切る道筋の先の左手には「散策覚書「松川鉱山仲ノ内の変電所」跡⑧」で整理した「社掌渡邉伊佐美碑」が建っているという状況だ。
http://kazenoshin.exblog.jp/23815576/
それで、「奥州街道:八丁目天満宮情報から⑦」では、この同じ場所を「八丁目天満宮情報」とみて、ここは明治以降神社の神官としてかかわった多宝院がかかわる処なのか、あるいは八丁目天満宮の旧地がかかわる場所と整理したところだ。
この事を、自家精錬場跡を探るという観点から見つめ直せば、当時流れていた水路と大きな変化はなさそうだということでもあると思えたということでもある。