山中毅さんの訃報に接して⑨
2017年 03月 24日
あの時代の実況の記憶に、映像はない。音声の記憶だ。
録音なのか実況中継なのかは分からないが、音声が遠のいたり、鮮明になったりする中、での中継アナウンサーの声が、その思い出を支えている。
セリフは、「現在、山中、トップッ」だったり、「トップはローズ、山中が続いています」だったりしたはず。接戦のはずなのだ。
あの時の昂奮を支えた情報を確認する。
先に経歴で、昭和31年(1956)に、輪島高3年でメルボルン五輪に出場し、金メダルを取ったオーストラリアのマレー・ローズと激闘を演じ、400m、1500m自由形で銀メダルを獲得したことについてはふれている。
山中選手は、その後、早稲田大学に進学すると、世界新の記録を樹立する。
「朝日スポーツ賞」のページで、その活躍を確認する。
昭和33年度(1958)に200m自由形で2分3秒0の世界新を樹立する。(8/22大阪)
その翌年の昭和34年度(1959)には、400m自由形で4分16秒6の世界新を樹立する。(7/26大阪)
また、「梅本利三・藤本達夫・福井誠・田中毅」の800mリレーでも、8分21秒6の世界新を樹立し(7/22神宮プール)、「田中毅・福井誠・見上勝紀・藤本達夫」の800mリレーでは、先のレコードを更新し、8分18秒7の世界新を樹立する(7/26大阪)。
このように、田中選手がかかわる競技では次々に世界新を樹立して、その期待感が高まった中で迎えたのが、昭和35年(1960)のローマ五輪だ。
なお、この年、田中聡子も女子200m背泳で2分37秒1の世界新を樹立している。(7/12神宮プール)
山中毅選手が世界新記録を出した勢いのままローマ五輪を迎えていたのだ。
再び、オーストラリアのマレー・ローズとの激闘になるのだが、この勢いに乗って、メルボルンの雪辱を果たすのではないかという期待感もあって、日本中がローズとの再度の激闘に注目したはずなのだ。
訃報に接し、田舎では、映像で一流選手を目にすることのない時代に、このローマ五輪の翌年にその山中選手が目の前に現れたという少年の日の昂奮の記憶を整理してみた。