奥州街道:八丁目天満宮情報から⑧
2017年 07月 26日
この「八丁目家主一覧」図に描かれるのは、二本松藩が支配する体制になってからの宿の様子なのだ。
一方、半沢氏の「歴史地図」では、その「ハンドメ」を、境川から八丁目村へ入る手前の道がクランク状になる辺りに描いている。この事については「奥州街道:境川から八丁目村へ⑤」で記したところだが、これは時代の推移にかかわる事なのだと思っている。
つまり、この八丁目宿が福島藩に支配される範囲に入っていた時代を想定しているように思うのだ。その時代は、この宿が二本松藩との実質的な接点になるわけで、ここに口留番所があったことをイメージしているのだと思われるということだ。
ここには、参考資料が示されていないが、恐らく宝暦11年(1761)「米沢より江戸まで駅絵」の「八丁目宿の図」を意識しているのではないかなと想像する。
その「八丁目宿の図」コピー写真は、「ふくしまの歴史3(近世)」の「福島の街道」の一つ「米沢街道」解説に見ることができる。
その絵図には「信夫郡 上八丁目 二本柳へ一リ 二本松へ二り八丁」とあり、本陣桜田新兵衛門屋敷も紹介される。
自分にとっての注目点は、この図の境川の八丁目宿寄り側に「福島領」と記されていることだ。描かれているのは、八丁目宿が福島藩領であった頃ということの確認だ。
この絵図についての評価だが、本陣の桜内家の位置などに間違いがあるものの、全体として宿場町の雰囲気がよく伝わる絵図とされているようだ。また、二本松方面への出入りをチェックする口留め番所などがしっかり記されているとされるようだ。
ただ、絵図には口留め番所の表記はなく、その絵図の二本松側のクランク状になる道の両側に柵が描かれていて、次の角の西側に塀が回された家が描かれているだけだ。
現況と見比べると、塀が回された家が描かれている辺りが八丁目天満宮の辺りと思われる。柵は奥州街道を二本松方面から歩いてくるとクランク状に曲がり始める最初の角辺りだと思える。
ただ、この八丁目天満宮辺りが口留め番所跡だったと言い切る情報を見た事はない。それどころか、「ふくしまの歴史3(近世)」の「信夫隠れの碑」の写真解説には「ここは二本松藩領との境にあり、上杉時代は口留番所を置いて厳重に取り締まった」とあり、「信夫隠れの碑」旧地が口留番所であったような解説も見る。
これも、時代による推移とみるのか、不明であることをあえて推定すればということなのかは分からない。
なんでしょうね、ハンドメ。
位置から考えると確かに口留番所っぽいです。
八丁目宿の枡形には木戸や石垣があったのでしょうか?
もしかすると、番所や木戸、石垣などを含めた保安施設を、
「ハンドメ」と呼んでいたのかも知れません。
郡山宿の枡形石垣は「麓山の飛瀑」に転用されましたが、
八丁目宿の場合、松川橋に化けたかも?
なんて想像するのも一興ですね。